佐倉城下の坂巡り

佐倉城の縄張り
佐倉城の縄張り
  1. 佐倉城は、印旛沼に注ぐ鹿島川の河口近くにあり、この鹿島川に遠く富里方面から流れ来る高崎川が合流する分岐点を見下ろす小高い台地上に築かれた平山城です。城域や武家屋敷がある辺りは標高は22~32m、比高10~20mほどで、全体的にはかなり起伏がある鹿島台地上に城郭や町家が展開しています。
  2. 町家は東側に伸びた舌状台地上に意図的につくられましたが、周りの印旛沼や鹿島川、高崎川周辺や台地下の低地部分には農村が散在して、農作物を作り武士や町方の生活を支えていました。
  3. このように台地が入り組んだ谷津からなる地形の佐倉城下では、何処へ行くにも必ずといって良いほど坂を通らなければ行き着くことができませんでした。それは今も昔も変わらない佐倉の道路事情です。昔から佐倉は坂道の多い城下町です。
  4. そのような城下の坂道について、江戸時代の正徳年間(1710年代)頃の、佐倉城下の様子が記された「古今佐倉真佐子」に基づいてまとめてみました。

 

1.佐倉城内の主な坂

あたご坂

(愛宕坂)

■椎木曲輪から田町門に下る坂で、今は歴博への入り口になっている

 所。坂上に愛宕神社があったことから名付けられた。その近くには別当

 寺の円正寺があった。

■明治以降連隊の営門があったため「営門の坂」ともいった。

■夜な夜なサラサラと砂の流れる音がするとか、高い音を立てて転がって

 来る物があるとか、それらは天狗の仕業だと言われていた話が伝わ

 る。

 へび坂

■角馬出の脇の空堀に沿って根曲輪(鹿島橋方面)に下る坂。くねくねと

 曲がった坂である事と、昔蛇が多く出たという事から名付けられた。

■連隊時代には坂を上がった所に連隊の西門があり、連隊から出る下肥

 を角来方面に運ぶ経路になり、「こやし坂」という異名もあった。

■夜が更けると杉の木の上から大勢の者が歌う声が聞こえてくる。ある時

 この坂を通った侍が、いつの間にか杉の木の上に引き上げられてしま

 った。

 気がついてわびを言うと地上に下ろされ、一目散にかけ戻った。その後

 は、夜が更けてからこの道は通らない。という話が残っている。

  杉坂

■椎木曲輪からヘビ坂とは反対の東側に下る坂で、今は踏み跡のみ記

 録によるしかない幻の坂。

■木に覆われて昼でも暗い坂道。「鵜」が年中住みつき春には巣を作る。

 その鵜がくわえてきた魚を落として、それを下にあった組長屋の侍が拾

 って食べたとある。この辺りは鵜の糞で雪の中にいるようで、糞で木

 が枯れかかった。それ故「鵜の糞山」と呼ばれてもいた。

■夜が更けてからこの坂を通ると、坂の中程に金網のようなものが張られ

 て通れなくなっていた。

センゲン坂

(浅間坂)

■坂を上がった所に佐倉城鎮守の浅間神社があった。この神社は廃城

 後に鏑木の諏訪尾余にある浅間神社に合祀された。

■浅間神社は富士山が崇められており、ここから西方には富士山が眺め

 られ、絵図にも神社とともに富士山が描かれている。

■富士山の山開きの6月1日(今は7月1日)が祭礼で、神輿が神前に飾

 られた。しかしこの神輿はどこかへ移動することはなかった。

■大手門近くの勝蔵院から別当僧侶が正装して終日神前に詰めていた。

 七曲坂

■「姥が池」下の菖蒲田から上り、佐倉中学校のグランド一角に続いてい

 た坂。

■天神曲輪から姥が池に下る坂で、坂の上は天神ノ森で、ここには大乗

 院というお寺があり、堀田正信が寄進した釣鐘があった。

 この釣鐘は城主所替えの時に竜頭から全体に汗をかき、殊に正信転

 封でこの地を去るときには、残っていた汗すべてをかいてしまい、それ

 が七曲の坂を流れたという。

 
佐倉城下の主要な坂道
佐倉城下の主要な坂道
図1:あたご坂、図2:うるし坂、図3:くらやみ坂・ひよどり坂、図4:みそべやの坂
図1:あたご坂、図2:うるし坂、図3:くらやみ坂・ひよどり坂、図4:みそべやの坂

城下町の主な坂

みそべやの坂

■現在の体育館前から田町方面に下る坂。絵図によると坂下にミソベ

 ヤ(味噌部屋)とあるように、味噌等を蓄えておく備蓄小屋があった

 ものと思われる。

■江戸時代には味噌は貴重な保存食でもあった。

海隣寺の坂 

■現在の市役所北側の坂で、成田街道が台地上の町へと上がって来

 る道である。江戸方面から佐倉への入り口としての位置になり、街

 道筋の要地として土手・竹矢来で守られた木戸があった。

■街道越しの急坂で、昔は、上がる車の後押しを商売にしていた「おっ

 ぺし」といわれる生業があった。

 ひよどり坂

■武家屋敷通りの西端、大聖院脇の竹林の中の小道で、鏑木小路か

 ら三味線堀を通って大手門に至る。名前の由来は不明。

■三味線堀は堀の形が三味線のバチに似ているところから付いたと

 言われる。

  薬師坂

 ■鏑木村から武家屋敷の方へ上がっていく坂で、かつて坂上にあっ

 た薬師堂は昭和4年に消失したが、坂にその名を残した。

■薬師如来像は寺崎川の投網にかかって出現したと伝えられている。

 その薬師如来像は、現在坂下の周徳院に安置されている。

 やかん坂

■薬師坂の台地東側(この辺を牛蒡鼻という)から鏑木村の方へ下り

 ていく坂。荒れ果てた坂道だったが、今は崩落防止の工事が終わ

 り、排水溝付きの石段の坂に改修された。

■昔、この坂の上の農民が、昼飯の時に誤って手にしていたヤカン(薬

 缶)を落とし、コロコロと坂下まで転がってしまったことからこの名が

 付いたとも。また、昼間でも薄暗い坂道だったので、「夜間坂」という

 名がついたともいわれる。

 うるし坂 

■旧佐倉保健所跡南側の道を東へ県道の下をくぐる道で、かつて

 根郷方面と町中や軍隊への物資輸送はこの坂道を運ばれた。

■砂利道であった頃、トンネルをくぐった急な曲がり角では車がハンド

 ルを取られ下側に転げ落ちることが頻繁に有り、自転車などがよく

 飛び込み大騒ぎすることがあったと言われる。

 猿が脇の坂

■美術館の南側から鏑木方面に下る坂で、絵図には坂の下に井戸

 があったことから「サカル坂または井戸坂」とも記されている。

■樹陰が濃い坂道だったが、今は枝木が切り落とされ見通しもよい坂

 になっている。

■江戸時代にはこの坂上には新長屋があり、そこへの行き来や鏑木

 村への通路として利用された坂道である。

 佐倉の急坂ベスト3に入る。

 くらやみ坂

■公開されている武家屋敷の中間辺りを袋小路方面に下る切通の坂

 道。往時は大きな樹がうっそうと茂って、太陽の光も遮っていたほど

 の道であったものと思われる。

■大手門への近道にもなり、侍が登城時にはこの道を利用したものと

 思われる。 

 
 
 

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