本佐倉城の縄張りと郭の特徴

本佐倉城の縄張り

1.本佐倉城の惣構

本佐倉城跡案内図
本佐倉城跡案内図
  1. 本佐倉城が存在した場所は、現在の地名では酒々井町本佐倉と佐倉市大佐倉にまたがっている。中世にはこの近辺は『下総国印旛郡印東荘佐倉』と呼ばれていた土地であるが、城ができ家臣たちが集まってくると、「市」と「まち」が構成されるようになった。
  2. 本佐倉城跡は、酒々井町と佐倉市にまたがる将門山台地上に構築された下総地域では最大級の規模をもつ中世城跡で、標高33m、比高24mの台地上に東西約700m、南北約800mの城域である。北方に広がる印旛沼によって形成される湿地帯が、北側、東側、南側三方向を囲んで、西側のみが台地とつながっている。その西側も外郭部や大きな空堀が取り巻いて、西側台地からの外敵の侵入を困難にしている。
  3. 本佐倉城は、馬加系千葉氏の宗家相続を認めない上杉氏からの攻撃を防ぐためにも、外郭部や支城なども含めて強固な防衛力を備えた縄張りになっている。また、土塁などの築き方等から、外郭の「荒上」地区や「向根古谷」等の構築は、戦国末期に築城されたものと推測されている。
  4. 城周辺に展開した城下町は1,5㎞四方にも及び、東に「酒々井宿」、南に「本佐倉宿」、西に「鹿島宿」、北に「浜宿湊」が所在し広大な城下町を形成していた。また浜宿河岸は印旛沼という大水路による交通の拠点であり、中世には「市」がたてられていた事が発掘調査でも証明されている。このように本佐倉の町場は商業地としての機能を備えていた。
  5. 本佐倉城は内郭部を核として、同心円状に周辺を取り巻く外郭部分、更にその外側に町場や支城群を配し、内郭に城主や家族、外郭に一族や家臣団を、更にその外側に住民を居住させた惣構えにすることによって守りを強固にしていた。
  6. 内郭群は主殿、会所が存在する城山を中心に複数の郭で構成されている。外郭郡は土塁と空堀によって区画された広大な面積をもつ郭で、家臣の屋敷などが展開していたものと推測される。また、この場所が逆L字状に湿地帯に突き出た地形を形成しており、逆L字の横棒の部分を城郭とする事によって、戦闘正面は横棒の付け根部分のみに絞る事ができ、攻撃側はL字の縦部分という展開面積が限られた場所を進む事になり、更に90度右旋回しながら進まなければならない。中世の城は地形に対する依存度が高くその意味でも堅城だったといえる。
  7. 本佐倉に住んだ家臣団は、千葉氏の直臣レベルや分流、庶家と考えられ、その他は各々の領地に居住したと思われる。戦国後期に森山城から胤冨が入城したときには、森山から連れてきた家臣たちも新たに荒上や向根古谷に住むようになったと推測され、また、戦国末期には『佐倉衆』ということで、千葉氏は北条氏の一武将として位置づけされるようになり、北条氏の家臣も移住してきた模様である。

2.本佐倉城の構成

本佐倉城跡が存在する台地全景
本佐倉城跡が存在する台地全景

 本佐倉城の城域は、半島状台地先端より城山、奥の山、倉跡、セッテイ山、荒上の五つの郭がほぼ直線的に並び、それに付随する腰郭や帯郭、物見台などが構築されている。更に、奥の山南側の低く入り込んだ湿地帯を隔てた向根古谷の台地上に、外郭としての郭が構築されており、これらを含めて本佐倉城の城域としている。

  • 内郭部

Ⅰ郭(主格または城山)、Ⅱ郭(奥の山)、Ⅲ郭(倉跡)、Ⅳ郭(無名郭)、

Ⅴ郭(東山馬場)、Ⅵ郭(東光寺ビョウ)、Ⅶ郭(セッテイ山)

  • 外郭部

Ⅷ郭(荒上)、Ⅸ郭(向根古谷)、Ⅹ郭(佐倉根小屋) 

 

■内 郭

【城山(Ⅰ郭)】

  1. 他のどの郭より防御性において優位になっており、城山に入るには堀切からの一か所で、城山の裾から30mほど坂をのぼり虎口に至る。通路の途中右側の崖状に落ちこむ個所は、通路を狭くし侵入者の側面を突く横矢が仕掛けられ、城山への侵入を困難にしている。
  2. 城山は本佐倉城の中で最も要害性の高い郭であり、此処が詰め城であったことは間違いないとされる。城主は常時は別の場所で過ごし、一朝有事のときには城山が詰め城になる役割である。
  3. 城山の四方は全て土塁を設けており、南側は痕跡のみであるが、東・北・西側は良い状態で現存している。また、南側中央から東側、更に北側にかけて、帯状腰郭が6~7m位の高低差の位置にあり、城山の防御性をより高める備えが施されている。

【奥の山(Ⅱ郭)】

  1. 奥の山郭の台地上は、通称「妙見郭」ともいわれ、千葉氏の守護神妙見を祀っていた妙見宮や、儀式等に関係する建物があったとされている。歴代城主の元服式は妙見宮で行うが、千葉の妙見神社がその時の社会情勢で使えないときには、この佐倉妙見宮で元服式を行った城主(利胤、邦胤)もいた。しかし現在、その妙見宮は此処にはなく南側崖麓の集落近くに移されている。
  2. 奥の山郭東側に存在する腰郭付近はかつて城主の常御殿が存在した場所とされており、古絵図には「千葉様茶井戸」と記された場所もあって、今でも井戸の痕跡が確認されている。

【倉跡(Ⅲ郭)】

  1. 倉跡郭は段階状に築かれ南に向かって高くなっている。倉跡郭と奥の山郭の間を南に崖を下っていくと、移された妙見宮があり人家の集落に出る。
  2. 名前の通り倉庫群が存在したと考えられている。調査で掘立柱建物が広範囲に存在していた事が確認され、一番高い場所からは炭化した米も見つかっている。その他、供膳具(天目茶碗、平碗など)、調理具(釜、鍋など)、貯蔵具(壺など)等も多く見つかっており、倉庫だけでなく人が生活するための空間も存在していたと推測される。
奥の山から見るⅣ郭全景
奥の山から見るⅣ郭全景

【Ⅳ郭】

現時点では郭に名前が付いていない。武士の屋敷が存在したことも推測されるが、まだ使用目的や郭の性格などはっきりした事は解明されていない。

【東山馬場(Ⅴ郭)】

名前の通り馬場と考えられ馬場施設の存在が推測されるが、広い面積を有するにもかかわらず、建物跡などはまだ確認されていない。

【東光寺ビョウ(Ⅵ郭)】

内郭群の北側に位置し、二つの北側に突出した物見台によって守られた広大な空間。平場と帯郭、それに倉跡やセッテイ山に続く虎口で構成されるが、郭の性格は現時点では明確でない。

セッテイ郭があるセッテイ山の様子
セッテイ郭があるセッテイ山の様子

【セッテイ山(Ⅶ郭)】

  1. セッテイ山自体は人工的な不等辺六角形になっており、コーナ部から斜射、側射が行える工夫がみられ、取り巻く空堀の深さとともに非常に進んだ縄張りになっている。しかし郭内には土塁などは見られず全く平たんになっている。また、東側の倉跡郭とは深さ約10mの空堀によって隔てられている。
  2. セッテイ山はその名から、客を接待する施設があったとも言われている。調査では建物跡が見つかっており、供膳具、調理具、貯蔵具などや碁石、茶壺、火箸等が確認されている。
  3. セッテイ山西側の空堀は本佐倉城跡の中では深さも規模も一番大きく、状態も非常に良い姿で残っている。

■外 郭 部

荒上郭の全景
荒上郭の全景

【荒上(Ⅷ郭)】

  1. 荒上の郭は南北約300mあるが区画等はまだ確認されていない。郭の内部は今は畑地になって平たんな土地が広がっているが、東側は急崖で中央部には腰郭が確認されている。西側については、今はほとんど埋没しているが往時の空堀の形跡は十分確認できる。
  2. 南側の土塁や空堀は良好な状態で残されており、出枡形の備えを持ち、空堀への侵入者に横矢を仕掛ける機能と、前面への侵入者に対し180度の攻撃を加えることを可能にしている。南側虎口下の空堀内には土橋の痕跡も分かりやすい状態で確認できる。

 

向根古谷郭が存在する台地
向根古谷郭が存在する台地

【向根古谷(Ⅸ郭)】

  1. 本佐倉城の主郭と100mほどの谷津部分をはさんだ南側台地上に向根古谷郭がある。西側、北側、東側は急崖に守られ、南側は大きな空堀で守りを固めた郭で、台地上北端の主郭に最も近い先端部には物見台があったといわれている。
  2. 小さな郭と大規模の二つの郭で構成され、前方にある小さな郭は馬出の役割を持っている。この馬出の前後に空堀があり、空堀には夫々に土橋が懸けられ、土橋を渡り切る所には門があると同時に側面には櫓台が設置されている。
  3. 空堀の規模は大きく、また土塁は高く上部の幅もかなり広く造られており、虎口からの侵入者に対しては高い位置からの横矢が仕掛けられる。此処では郭の規模の大きさと同時に築城技術の高さからも、小田原北条氏の築城プランや築城技術が加わって、より外郭としての整備強化が図られたとみるべきである。

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