佐倉城

近世佐倉城の誕生

城址公園の案内標識
城址公園の案内標識

江戸時代初期に築かれた近世佐倉城の城跡は、昭和30年頃から公園として整備が進み、58年にはほぼ現在の形に公園として整備が整えられた。今では歴史公園≪佐倉城址公園≫として、市民にも最も訪ねてみたい散策場所の一つとして人気を集めているスポットである。

この佐倉城について、幕末の様子を中心に城の移り変わりの歴史を振り返ってみる。

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  1. 慶長8年(1603)、徳川家康は征夷大将軍に任ぜられ、名実ともに天下の支配者となって江戸幕府を開き大幅な大名配置替えを実施した。この江戸幕府成立によって幕府と藩による支配体制、いわゆる幕藩体制が全国に敷かれることになり、ここに佐倉藩政の開始となった。
  2. 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、家康は度々佐倉・東金方面に鷹狩りや軍議のため出かける中、鹿島山(現在「佐倉城址公園」となっている当たり全体)の地の利に着目し、江戸の守りとして「天下の名城が出来るぞ」とその要害堅固を称え、慶長15年(1610)、譜代中の譜代大名である土井利勝(当時小見川1万石城主)に佐倉に移り築城するよう命じた。
  3. 利勝は翌年から足掛け7年の歳月をかけ、中世に築かれていた千葉氏の築城跡を基礎にして、更に大規模の近代的城郭を元和3年(1617)に完成させた。これが明治の廃藩まで続いた近世の佐倉城である。そして佐倉城は、鹿島山(台)に位置していることもあって通称「鹿島城」とも呼ばれた。

 

  • もともと千葉氏の本拠は、元佐倉城(現在の佐倉市東端の酒々井町との境界地域)であったが、戦国末期になって鹿島山に新城を築くことになり、千葉介親胤の代に築城を開始した。しかし度々の築城中止があって、中世城郭として一応完成したのは1585年頃といわれている。

 

佐倉城の立地環境

佐倉城跡の現在の姿全景
佐倉城跡の現在の姿全景
  1. 佐倉は小田原・川越などと同様、江戸を取り巻く要衝の地であり、下総地方の中心に位置する事と、成田・佐原、更に銚子に至る街道上にあって、江戸から一日行程の距離にある。
  2. 家康が中世城郭の本佐倉を捨て鹿島山に規模の大きい築城を命じたのは、江戸城の外郭にある要衝の地として、鹿島山の地形や立地条件が本佐倉城に比べて極めて優れていたためと推察できる。

 

  • 東西に馬の背状に伸びる尾根の先端に位置した佐倉城は、比高約20mの広い台地に恵まれている。しかも、南と西側には険しい崖の下に印旛沼に注ぐ高崎川と鹿島川があって外堀の役割を果たし、北側に広がる印旛沼とともに自然の要害を形成している。
  • 東側の尾根は半島上に舌状台地が続き、この台地が近世城郭としての重要な町人の居住地、及びそれを取り巻く形で武家屋敷を配置するのに格好の条件を与えている。

3.軍事的要件が最優先された中世城郭に対し領国支配の要としての近世城下町は、家臣団を集住させ、その家臣団の生活を維持するための商人・職人を城下に住まわせるための土地が必要で、この場所はそうした条件を満たしていた。

 

4.佐倉城は城郭づくりブームが終わった1617年の築城で、政治的な平和の確保のための守りと、その為の権威の象徴としての天守を備えた平和と権威のシンボルとしての城である。そして、佐倉城は江戸要衝の一つと位置づけ、土井利勝以降も徳川氏譜代、または信任の厚い10家の20人が大名として入封し、その内7家から9人が老中になった。これは藩主の活動が幕政中心になるため、藩政との兼務があるための地理的便宜も図られた結果でもあった。

 

5.天正18年(1590)の小田原の役から20余年、この間徳川家の家臣による佐倉地方の支配拠点は、千葉氏時代の延長として約4km東に離れた本佐倉であったが、それが佐倉城の落成で鹿島山に移り、従来は佐倉イコール本佐倉であったが、それ以降鹿島山一帯を佐倉と呼び、築城とともに商人町も形成された。

 

堀田氏11万石と佐倉城

安政年間の佐倉領(投影図)
安政年間の佐倉領(投影図)
  1. 佐倉藩は堀田氏11万石として知られるが、実際は譜代大名の居城であったため大名の入れ替わりは頻繁に行われた。佐倉城築城以降の約250年の間に、堀田氏以外の藩主の在位は合わせて約110年、残り約140年間を堀田正盛・正信父子の前堀田時代と、堀田正亮にはじまる後堀田時代に渡って堀田氏一族が佐倉の地を領した。
  2. 後堀田氏は、堀田正盛の三男・正俊を祖として5代目堀田正亮が、延享3年(1746)、老中に就任するとともに佐倉に入封した。そして9代堀田正睦は老中主座として、幕末には日米修好通商条約締結など日本の開国に大きな貢献を成した。

 

藩 主 入 封 年  在位    石高(佐倉) 備   考 
 土井利勝   慶長15(1610)   24 142,000

老中 

後に大老   

 石川忠総 寛永10(1633)   2 70,000 豊後日田より入封 

 松平家信

    (形原)

寛永12(1635)   3  40,000 摂津高槻より入封 

 松平康信 

  (形原)

寛永15(1638)   3  36,000 摂津高槻へ再転 
 堀田正盛 寛永19(1642)  10 110,000

 老中 

信州松本より入封

 堀田正信  慶安4(1651)  100,000 改易 幕法違反 

 松平乗久

  (大給)

寛文元(1661)  18 60,000 上野館林より入封 
大久保忠朝 延宝6(1678) 93,000

老中

 肥前唐津より入封

 戸田忠昌 貞享3(1686) 14 71,000

老中 

    武蔵岩槻より入封

 戸田忠真 元禄12(1699) 67,800   越後高田へ転封

 稲葉正通

  (正往)

元禄14(1701) 102,000

老中 

    越後高田より入封

 稲葉正知 宝永4(1707) 21 91,000  山城淀へ転封

 松平乗邑

  (大給)

享保8(1723) 23 70,000

老中 

山城淀より入封

 松平乗佑

  (大給)

延享2(1745) 60,000   出羽山形へ転封
 堀田正亮 延享3(1746) 15 110,000

老中 

    出羽山形より入封

 堀田正順 宝暦11(1761) 45     〃  
 堀田正時 文化2(1805)     〃  
 堀田正愛 文化8(1811) 13     〃  
 堀田正睦 文政8(1825) 35     〃 老中(2回)
 堀田正倫 安政6(1859) 12     〃 廃藩置県
 
 

佐倉城の命運

佐倉城のイメージ鳥瞰図
佐倉城のイメージ鳥瞰図
  1. 築城以来江戸の守りであった佐倉城も、城郭そのものは他国に見るような石垣等を持つ堂々たる城とはいえなかった。本丸の天守閣は文化10年(1813)焼失した後は再築されず、他の銅櫓、角櫓や大手門を始めとする櫓門等については、版籍奉還前後からは修理も行届かず、雨漏り等による破損もひどくもてあまし状態になった。

2.明治4年(1871)の廃藩置県で佐倉県が城地の引き継ぎを受けた時、政府にその管理方法について伺いを出し、当分そのままにして置くようにとの指示に従ったため腐朽は一層激しくなった。その後、明治6年には軍隊の駐屯地として第一軍管東京鎮台の営所を佐倉城跡に置くことが決まり、城跡に兵舎を建て歩兵第二連隊が駐屯する事になった。そこで、廃藩置県後も旧城内に居住していた人たちは全員立ち退きを命じられ、同時に腐朽の激しかった櫓や城門等の建物は取り払われた。今は建物一つ残っていない城跡ではあるが、堀や土塁、また往時からのものと思われる椎や松の古木など、 近世城郭の面影を色濃く残している。 

 

佐倉城の規模・構造

築城時の礎石(伊豆石)
築城時の礎石(伊豆石)
  1. 佐倉城は、北方は印旛沼に続く低湿地帯、西と南は鹿島川とそれに合流する高崎川を眼下に見下ろす鹿島台地約20万坪を城地とする平山城で、川や急崖が自然の要塞になって石を使わない築城が可能だった。城内は舌状台地先端部を本丸とした梯郭式曲輪配置で、二の丸、三の丸が連なり、更に家臣の屋敷割がなされた数か所の曲輪からなっていた。

 

2.城内に入るには大手門、三の門、二の門、一の門を経て本丸に到達する事になる。本丸には屋形(館)があり、佐倉藩の政治の中心的な機能を果たす場所であった。主要な建物として屋形の他に、天守閣、二重の銅櫓、角櫓などがあった。往時の城郭規模は、東西1,2km、南北1,0km、総面積約20万坪の広大なものであったが、現在は城址公園として約8万坪に城跡の史跡が保存されている。

 

3.本丸の北方側には4重の、東方側には5重の急峻なV字空堀と城門を構え、この北側と東側両台地にくさび状に入り込む谷筋には、姥ヶ池が行く手を阻むように位置している。台地周縁は20m前後の高低差のある急崖と、これに沿って水掘りが巡らされている。佐倉城は石垣のない城であるが、天然の要害を十分に計算して、縄張りが極めて理論的に構成された近世城郭になっている。

 

4.本丸の一の門から東方台地上ほぼ一直線に、二の門、三の門、大手門が夫々土塁や空堀を備えて置かれ、北方側には、城米不明門、椎木門、それに街道沿いに田町門を構えていた。全体的には深い空堀と土塁が堅い防御を果たし、守るに易く攻めるに難しい近世城郭といえる。

 

5.水掘りの構成は、大手門北側崖下より反時計方向に一の堀、二の堀、三の堀と続き、ゴケ曲輪の前から田町門の所までが四の堀、田町門から成田街道に沿って西に延びているのが五の堀で、城の西側を南に鹿島不明門までが三十間掘である。本丸を囲むように造られているのが清水掘、そして三の丸南崖下から大聖院西崖下までがタカショウ堀と名付けられている。このタカショウ堀の先には大手門方向に向かって三味線掘がある。これで城全域をほぼ完全に水掘が取り囲んでいる事になる。

 

 

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