江戸時代初期に築かれた近世佐倉城の城跡は、昭和30年頃から公園として整備が進み、58年にはほぼ現在の形に公園として整備が整えられた。今では歴史公園≪佐倉城址公園≫として、市民にも最も訪ねてみたい散策場所の一つとして人気を集めているスポットである。
この佐倉城について、幕末の様子を中心に城の移り変わりの歴史を振り返ってみる。
3.軍事的要件が最優先された中世城郭に対し領国支配の要としての近世城下町は、家臣団を集住させ、その家臣団の生活を維持するための商人・職人を城下に住まわせるための土地が必要で、この場所はそうした条件を満たしていた。
4.佐倉城は城郭づくりブームが終わった1617年の築城で、政治的な平和の確保のための守りと、その為の権威の象徴としての天守を備えた平和と権威のシンボルとしての城である。そして、佐倉城は江戸要衝の一つと位置づけ、土井利勝以降も徳川氏譜代、または信任の厚い10家の20人が大名として入封し、その内7家から9人が老中になった。これは藩主の活動が幕政中心になるため、藩政との兼務があるための地理的便宜も図られた結果でもあった。
5.天正18年(1590)の小田原の役から20余年、この間徳川家の家臣による佐倉地方の支配拠点は、千葉氏時代の延長として約4km東に離れた本佐倉であったが、それが佐倉城の落成で鹿島山に移り、従来は佐倉イコール本佐倉であったが、それ以降鹿島山一帯を佐倉と呼び、築城とともに商人町も形成された。
藩 主 | 入 封 年 | 在位 | 石高(佐倉) | 備 考 |
土井利勝 | 慶長15(1610) | 24 | 142,000 |
老中 後に大老 |
石川忠総 | 寛永10(1633) | 2 | 70,000 | 豊後日田より入封 |
松平家信 (形原) |
寛永12(1635) | 3 | 40,000 | 摂津高槻より入封 |
松平康信 (形原) |
寛永15(1638) | 3 | 36,000 | 摂津高槻へ再転 |
堀田正盛 | 寛永19(1642) | 10 | 110,000 |
老中 信州松本より入封 |
堀田正信 | 慶安4(1651) | 9 | 100,000 | 改易 幕法違反 |
松平乗久 (大給) |
寛文元(1661) | 18 | 60,000 | 上野館林より入封 |
大久保忠朝 | 延宝6(1678) | 8 | 93,000 |
老中 肥前唐津より入封 |
戸田忠昌 | 貞享3(1686) | 14 | 71,000 |
老中 武蔵岩槻より入封 |
戸田忠真 | 元禄12(1699) | 2 | 67,800 | 越後高田へ転封 |
稲葉正通 (正往) |
元禄14(1701) | 2 | 102,000 |
老中 越後高田より入封 |
稲葉正知 | 宝永4(1707) | 21 | 91,000 | 山城淀へ転封 |
松平乗邑 (大給) |
享保8(1723) | 23 | 70,000 |
老中 山城淀より入封 |
松平乗佑 (大給) |
延享2(1745) | 1 | 60,000 | 出羽山形へ転封 |
堀田正亮 | 延享3(1746) | 15 | 110,000 |
老中 出羽山形より入封 |
堀田正順 | 宝暦11(1761) | 45 | 〃 | |
堀田正時 | 文化2(1805) | 6 | 〃 | |
堀田正愛 | 文化8(1811) | 13 | 〃 | |
堀田正睦 | 文政8(1825) | 35 | 〃 | 老中(2回) |
堀田正倫 | 安政6(1859) | 12 | 〃 | 廃藩置県 |
2.明治4年(1871)の廃藩置県で佐倉県が城地の引き継ぎを受けた時、政府にその管理方法について伺いを出し、当分そのままにして置くようにとの指示に従ったため腐朽は一層激しくなった。その後、明治6年には軍隊の駐屯地として第一軍管東京鎮台の営所を佐倉城跡に置くことが決まり、城跡に兵舎を建て歩兵第二連隊が駐屯する事になった。そこで、廃藩置県後も旧城内に居住していた人たちは全員立ち退きを命じられ、同時に腐朽の激しかった櫓や城門等の建物は取り払われた。今は建物一つ残っていない城跡ではあるが、堀や土塁、また往時からのものと思われる椎や松の古木など、 近世城郭の面影を色濃く残している。
2.城内に入るには大手門、三の門、二の門、一の門を経て本丸に到達する事になる。本丸には屋形(館)があり、佐倉藩の政治の中心的な機能を果たす場所であった。主要な建物として屋形の他に、天守閣、二重の銅櫓、角櫓などがあった。往時の城郭規模は、東西1,2km、南北1,0km、総面積約20万坪の広大なものであったが、現在は城址公園として約8万坪に城跡の史跡が保存されている。
3.本丸の北方側には4重の、東方側には5重の急峻なV字空堀と城門を構え、この北側と東側両台地にくさび状に入り込む谷筋には、姥ヶ池が行く手を阻むように位置している。台地周縁は20m前後の高低差のある急崖と、これに沿って水掘りが巡らされている。佐倉城は石垣のない城であるが、天然の要害を十分に計算して、縄張りが極めて理論的に構成された近世城郭になっている。
4.本丸の一の門から東方台地上ほぼ一直線に、二の門、三の門、大手門が夫々土塁や空堀を備えて置かれ、北方側には、城米不明門、椎木門、それに街道沿いに田町門を構えていた。全体的には深い空堀と土塁が堅い防御を果たし、守るに易く攻めるに難しい近世城郭といえる。
5.水掘りの構成は、大手門北側崖下より反時計方向に一の堀、二の堀、三の堀と続き、ゴケ曲輪の前から田町門の所までが四の堀、田町門から成田街道に沿って西に延びているのが五の堀で、城の西側を南に鹿島不明門までが三十間掘である。本丸を囲むように造られているのが清水掘、そして三の丸南崖下から大聖院西崖下までがタカショウ堀と名付けられている。このタカショウ堀の先には大手門方向に向かって三味線掘がある。これで城全域をほぼ完全に水掘が取り囲んでいる事になる。