≪案内順路≫
大手門跡 ー 広小路 - 天神曲輪跡 - 三の丸御殿跡 - 三の門跡(三の丸) - 三逕邸 - 二の門跡(二の丸) ー 対面所跡 ー 年貢米蔵と城米蔵跡 - 一の門跡(本丸) ー 夫婦モッコク - 天守閣跡 - 本丸屋形(館)跡 - 銅櫓・角櫓跡・ - 台所門跡 - 本丸を取り巻く土塁・空堀 - 不明門跡 - 椎の木門跡・馬出 - 椎木曲輪跡 - 愛宕坂 - 田町門跡 ー 姥ヶ池 - 鷹匠町・根曲輪 - 帯曲輪・出丸
『古今佐倉真佐子』 について
元禄14年(1701)から享保8年(1723)まで、佐倉城主であった稲葉正知の家臣・渡辺善右衛門守由(もりよし)によって記されたもので、彼が佐倉に居住した正徳年間(1711~1716)前後の、佐倉の風俗や見聞・伝説などが綴られている。
【大手門跡】
【広小路】
【佐倉兵営跡記念碑と三の丸御殿】
【三の御門】
【三逕亭】
【二の御門】
≪常盤木や 冬されまさる 城の跡≫
【御対面所】
【不明御門】
【年貢米蔵と城米蔵】
【本丸】
【夫婦モッコク】
[砲隊 昭和十八年十月]
【一の御門】
【天守閣】
【本丸館】
〔佐倉城天守閣の規模〕
三重四階(床下とも五階)
全 高 90,8尺(27、51m) 含むしゃちほこ
延べ面積 213坪
基部梁間 43、75尺(7間1尺余)
桁 行 50、0尺(8間2尺)
【角櫓】
6間×7間の二階造り。平時は武器庫で、一部の記録(佐倉城旧記)によれば、「隅櫓と称する櫓は極めて粗悪にして、千葉氏の将門山なる根古屋城より移したる由、柱などに多く貫の穴などあり」とあるが、この信憑性は何ともいい難い。いずれにしても「極めて粗悪」であったことは確かで、寛政3年(1792)には大修理をしているが、明治6年の取り壊しまでかろうじて持ちこたえていたものと思われる。この角櫓には佐倉の大工が造ったといわれる木製で高さ8尺の鯱鉾が載っていた。
【台所門】
本丸南に裏門として置かれたもので、規模は梁間3間の桁行き7間で、畳6畳二間の二階造りだった。台所門入って左手に2間×7間の長屋が置かれていた。しかし文化3年(1806)に大破したため、以降は木戸門に代えられた。
【本丸内のその他の施設】
【椎の木御門・馬出】
【惣曲輪と椎の木曲輪】
【田町門】
【鹿島不明門】
【愛宕社・五社・円正寺】
【姥ヶ池】
【ゴケ曲輪】
椎の木曲輪の台地南下と、天神社があった台地西下との間の低地を「ゴケ曲輪と呼んでいた。足軽長屋や組長屋があった時代もあるが、「ゴケという地名が屋敷が5軒あったことから「ゴケ」となったとか、中世に千葉氏の御家人が住んでいたから付けられたという見方など、名前の由来に諸説あるがその何れかは不明である。
【鷹匠町・根曲輪】
【帯曲輪と出丸】
明治政府は歴史と自然が残した要害の地佐倉を軍都と定め、明治6年に第一軍管東京鎮台の営所を佐倉城跡地に置き、翌7年に歩兵第二連隊が佐倉に駐屯した。その後は世界情勢や軍の組織変更などもあって、佐倉に駐屯する軍隊も数度の変遷を経るが、明治38年からは57連隊が駐屯する事になった。
明治6年1月 | 佐倉に第一軍管歩兵第2連隊の設置が決定。 |
明治7年5月 |
第一大隊が東京から佐倉に移った。これが実質的な佐倉連隊の
始まり。 |
◇明治6年佐倉に営所が決まった時、廃藩後もそのまま城内に 住んでいた旧藩士やその家族は急いで立ち退くことになった。 |
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明治38年7月 |
歩兵57連隊が新設され、衛戍地を佐倉町、徴兵区域を千葉県下 一円と定め、ここに57連隊の編成が確立した。 |
房総の郷土部隊としての57連隊は、大正5年8月の青島守備、12年9月の関東大震災後の救援と警戒、そして昭和に入っては2.26事件の警備に当たった。2.26事件後は満州に移駐し、太平洋戦争で主力はレイテ島にて終戦となった。
≪佐倉城跡散策の項 おわり≫