佐倉城の散策案内(佐倉城址公園)

佐倉城跡の歴史散策

 ≪案内順路≫

大手門跡 ー 広小路 - 天神曲輪跡 - 三の丸御殿跡 - 三の門跡(三の丸) - 三逕邸 - 二の門跡(二の丸) ー 対面所跡 ー 年貢米蔵と城米蔵跡 - 一の門跡(本丸) ー 夫婦モッコク - 天守閣跡 - 本丸屋形(館)跡 - 銅櫓・角櫓跡・ - 台所門跡 -  本丸を取り巻く土塁・空堀 - 不明門跡 - 椎の木門跡・馬出 - 椎木曲輪跡 - 愛宕坂 - 田町門跡 ー 姥ヶ池 - 鷹匠町・根曲輪 - 帯曲輪・出丸 

 

『古今佐倉真佐子』 について

元禄14年(1701)から享保8年(1723)まで、佐倉城主であった稲葉正知の家臣・渡辺善右衛門守由(もりよし)によって記されたもので、彼が佐倉に居住した正徳年間(1711~1716)前後の、佐倉の風俗や見聞・伝説などが綴られている。

大手門内

【大手門跡】

  1. 取り壊される前の右写真で見られるように、この大手門は規模の大きな櫓門であった。梁間4間、桁行8間の2階造りで、天保15年以降それまで椎木門に入れていた馬具を収納するようになった。門を囲んで外側に15間四方の土手が升形に設けられ、この升形を横切って土橋に出るような造りで、周囲は空堀と急崖を配して威容を誇り、ここの堀が城郭最前線となっていた。
  2. 大手門の升形の土手の北側にあった時報を告げる鐘楼が、城門の開閉や各役所の始業終了の刻を告げていた。この鐘は明治になって新町の教安寺に移されて町屋に時報を告げていたが、第二次大戦時に国に供出される運命に会い姿を消した。現在の教安寺の鐘は戦後に新しく鋳造されたものである。
  3. 大手門が存在した場所は現在の佐倉中学校正門前に当たるが、今は案内標識が往時の様子を伝えるだけである。

 

【広小路】

  1. 大手門から西に向かって三の門に至るところが広小路で、その北側に裏小路(後に天神曲輪と称す)が、南側には中下町、下町とあり、この辺りは佐倉藩の高録武士の屋敷が並んでいた。寛政11年(1799)以降、広小路南側西端に三の丸御殿が置かれ、藩主が在藩している時の住居とされた。又広小路右側の北西端には政務を司る会所があった。尚、初代藩主土井利勝時代の城絵図によると、広小路とは呼ばず単に広町と呼んでいたようである。
  2. 大手門を入り広小路の北側平坦部には天神曲輪が広がっていた。時代によっては広小路の裏小路と呼ばれたこともあったが、そこには堀田正信時代に大乗院と稲荷社があり、後には天神社も加わった。また幕末にはここに藩校の西塾が設けられた。
  3. ここの大乗院には「汗をかく釣鐘」の話が伝えられており概略次のような内容である。『大乗院には大きな釣鐘があって、堀田正信(城主)寄進と銘が刻まれていた。この鐘は城主所替えのある時には、龍頭から胴にかけて大汗をかいて止まらないといわれ、正信が改易になった時には鐘の汗が一段と激しく、七曲の坂下の谷まで流れていった』。と伝えられている。

 

佐倉兵営跡記念碑
佐倉兵営跡記念碑

【佐倉兵営跡記念碑と三の丸御殿】

  1. 自由広場の西隅に佐倉兵営跡の碑が建っている。元々この碑は、昭和41年に旧佐倉連隊の下士官集会所跡に建てられていたもので、国立歴史民俗博物館が明治100年記念行事として建設されるにあたり、昭和51年に現在の場所に移設された。
  2. 又すぐ横には、「皇太子殿下御野立所」の碑が建っている。これは明治44年5月21日、時の東宮殿下が佐倉連隊視察に行啓され、練兵場のこの場所に台臨されたのを記念して建てられた碑である。
  3. 遡って江戸時代、此処には三の丸御殿があって、堀田正睦が文久3年(1863)に江戸を引き上げた時、佐倉城内で「見山」と号して閑雅な日々を送っていた。翌4年に正睦が此処に松山御殿を建てて移り住んだ場所である。今も南の崖際には庭園の一部であったと思われる樹木等を見ることができる。

 

三の丸御門内

  【三の御門】

  1. 3間梁×桁行6間の二階造りで畳6畳の二間。「御作事方・家具方」と肩書きしてあるので、作事の大工・木挽き、その他諸職人の道具、家中の家具類を入れて、大倉庫として利用していたと思われる。内側には侍番所が置かれ、26か所に矢狭間が設けられていた。また、門の左右と門内の中仕切りには40間余の板の笠塀が巡らされ、空堀や土塁が門を囲むように造られていた。
  2. 三の門内には最上層レベルの重臣の屋敷などがあり、また左手奥の鷹匠町の方へ通じる坂の降り口には、佐倉城鎮守の浅間神社があった。この浅間神社は明治になって、現在の諏訪尾余にある浅間神社に合祀されている。
  3. 三の門に向かって左手にある今の窪地は往時の空堀の跡で、右手にあった空堀とともに明治の軍隊の駐屯地時代に埋め立てられた名残である。

 

【三逕亭】

  1. 二の門近くに「三逕亭」という茶室がある。これは近世佐倉城の歴史と直接関係はないが、昭和58年に国立歴史民俗博物館の開館を記念して佐倉市が建てたものである。三逕亭という名前の由来は、二の丸への逕と椎木曲輪へ行く逕、そして三の門へ向かう逕、この三つの道が合流するところから命名されたものである。
  2. この建物の中の茶室の一つには、京都の洛北紫野臨済宗大徳寺派大本山・大徳寺の一坊・孤蓬庵の茶室・忘荃(ぼうせん)を模して、東京の乃木神社境内に造られてあったものを佐倉市が譲り受けたものである。

 

二の丸御門内

【二の御門】

  1. 門の両側は空堀で、3間梁に桁行き8間の2階造り、畳数6畳二間。日常は武器庫として使用していた。門内左手にある舗装された小道は公園遊歩道として後に造られたものである。
  2. 門内側には腰かけ長屋が「くの字形」にあって、進入路の障害としての機能を持っていた。門櫓の塀には134もの矢狭間があって防御態勢を整えていた。
  3. 現在、二の門内左手近くに、正岡子規が明治27年12月、開通したばかりの総武鉄道に乗って佐倉を訪れたときに詠んだ句碑が建っている。

≪常盤木や 冬されまさる 城の跡≫

 

【御対面所】

  1. 御対面所は二の門を入って右手にあり、北と東は土塁や空堀で固め、南と西は周り塀で区切られていた。この場所は土井利勝の築城後、利勝の実弟の内蔵助が城代として屋敷を構えていたが、堀田正信時代の明暦時代の絵図には記入がない。そして松平乗久時代(1660頃)の絵図には対面所となっている。
  2. 対面所に入る門は二か所あって、表御門は二の門を入ってすぐのところに東向きに、裏門は北側の米蔵近くにあって門の両側には供待ちの腰かけ長屋があった。
  3. 表門と裏門の中に対面所と呼ばれる建物があり、城主居城のときにはこの館に住んだ。古今佐倉真佐子には「城主帰城の節、参府まではこの対面所に住す。本丸は権現公(徳川家康)御腰掛けられし故、恐れて代々の城主本丸住宅せざるなり」とある。
  4. 城主在府の時は家老他重役が年賀や五節句の折など、藩士からの祝いをここで受けた時代もあった。天明期(1780年代頃)の年寄日記には、間取りの主なものとして書院が三部屋、居間が四部屋等多くの部屋があり、台所・料理・膳立ての間、溜りの間等に中庭が付随し、畳数413畳と大きな規模の建物であった。しかし、腐朽が進み文化2年(1805)には取り壊され、その後城主は新たに造った三の丸御殿に居住する事になった。
  5. 対面所の跡には「二の丸番所」等の建物ができ、公儀の御触れ書などはここで藩士が見るようにした。そして対面所取り壊し後の城主在府時の年始や五節句の賀詞は、本丸の屋形で行われるようになった。

 

【不明御門】

  1. 対面所があった位置から少し北側に不明門があった。今も残っている対面所跡北東の空堀は、往時はもう少し先まで延びてその延長上に不明門があった。即ち、不明門は左右(西と東)に空堀がつながる縄張りであった。門の規模は梁間3間、桁行き8間の2階造りで、馬具役所が置かれ2階には馬具が収納されていた。
  2. この門は日常は閉め切りで日中暮れ六つまでは組番の者が詰めていた。

 

【年貢米蔵と城米蔵】

  1. 二の丸には米蔵と同時に城米蔵があった。米蔵は年貢米蔵と言われるもので、藩士に給与として支払うための米を蓄えておく蔵である。
  2. 一方城米蔵は、幕府直轄地からの年貢米の余剰を、有事の際の兵糧米として幕府から備蓄するよう義務付けされた米を保管する蔵である。城米は譜代大名藩が備蓄・管理を義務付けされたもので、毎年城米の中身を入れ替えて有事に備えることを命じ、譜代藩の転封の際の引き継ぎ時には、規則通りの城米備蓄の有無や備蓄の方針確認が求められた。
  3. 城米蔵の位置は不明門を二の丸に入った右側で、今も城米蔵建物の礎石が残っており、その場所を確認することも出来て蔵の位置や大きさを知る証になっている。

 

御本丸内

本丸内天守台跡と夫婦モッコク
本丸内天守台跡と夫婦モッコク

【本丸】

  1. 本丸は舌状台地先端部にあって、その南側と西側に高さ約35mほどの急崖を擁し、崖下には沿うように水掘りがあって、一方北側と東側は急峻なV字状の空堀を構えている。また、外周塁上は全て瓦塀を巡らし、本丸への出入りには二つの門が使われた。
  2. 城域の北方から西方向に鹿島川が流れ、城を過ぎたところで南方向に高崎川が分岐して城を囲むように流れ、両河川が天然の外堀となっている。更に、東方の大手門より本丸までは5重の空堀と四つの門で固め、北方搦め手は田町門から4重の空堀と三つの門を構えて、本丸の守りを堅固にしている。
  3. この地方には良い石材が無かったことから佐倉城は石垣が皆無であるが、代わりに台地をうまく利用し、また空堀を巧みに用いている。特に本丸を取り巻く東側と北側の空堀は、特別に深く掘り下げた薬研堀で、誤って落下し命を落とした話なども伝えられている。

 

【夫婦モッコク】

  1. 天守台が再現されているすぐ横にモッコク樹の大木が大きく枝を広げて聳えている。モッコクは成長が遅く、目通り幹囲2,7m程もあるこのような大樹になるには相当の年月が必要である。推定樹齢は400年以上とされ、この木は初代城主の土井利勝が大坂の陣で戦勝記念として持ち帰り、本丸館の庭木として植えたものと伝えられている。
  2. 元々2株植えられたものの1株が夫婦モッコクになったものか、3株寄せ植えした2株が融合したものかは定かでない。幹の部分には、かつて軍隊が駐屯した時代に刻まれた落書き文字があって今も鮮明に読み取れる。 

 [砲隊 昭和十八年十月]

 

【一の御門】

  1. 4間梁に桁行き8間の二階造りで、内部は8畳二間の畳敷き。門内両側に南北6間、東西2件の番所が向かい合って二棟あり、門前の空堀は土橋で渡れるようになっていた。
  2. 日常は弓方役所を置いたところで、二階は弓庫として使われた。
  3. 一の門を入ってすぐ右手に1間×7間の片流れ屋根の建物があり、中には3尺幅の供待ち腰掛けがあった。

 

天守閣模型写真
天守閣模型写真

【天守閣】

  1. 天守閣は城郭の中核をなし象徴的に威容と尊厳を表す建築物で、戦国時代の望楼としての目的から発展したものだが、慶長前期の城郭づくりのブームが終わった以降の近世城郭ではその点の強調はあまり見られなくなった。大大名の天守閣は別として、通常は武器庫や役所も置かれることが多く、佐倉城も例外ではなかった。
  2. 建物の基部は梁間7間に桁行き8間、高さが90尺で三重四階建て。三重層としては大きい部類に入るが、飾り破風などはなく質実な外観で素朴なものといえる。屋根は杮葺きであったようだが、場外の角来辺りから見ると三階に見えたので御三階と呼ばれ、内部には武具方役所が置かれ鉄砲その他の武具や武衣等を収納していた。
  3. 佐倉城天守閣のこのような形容は、築城した土井利勝が当時老中として幕府要職に就いて元和の一国一城令や武家諸法度など、幕府による城郭築城や修築に関する厳しい規制令に関与したこともあって、自身の築城に当たっては規模や装飾にもかなりの自制をしたとの説がある。しかし、土井利勝が古河藩へ移封後、佐倉の天守閣を模して築城したとされる古河城御三階櫓も同じ形容をなしことから、土井利勝の描く天守像自体がそのようなものであったとも考えられる。
  4. 佐倉城の天守閣は文化10年(1813)、城主堀田正愛の代に盗賊の火の不始末によって焼失した。盗人を捉え尋問したところ、天守西側崖下の堀を大タライで渡り切り、「鉄線」という名高い鉄砲を盗む目的で天守閣に忍び入った。目的を達成したが、逃げるとき提灯をそこに置いたままにしたため火災となった事が判明した。尚、盗人は藩士で下目付の者だった。

 

【本丸館】

  1. 本丸御殿は「御屋形」と呼ばれ、東西58間、南北70間程の大きな建物で、城主は日常はここには居住せず年始や五節句の折などに賀礼を受ける所となっていた。古今佐倉真佐子の記述によると、「本丸は権現公(徳川家康)が腰掛けられた事があり、恐れ多くて代々の城主は住宅にはしなかった」とある。
  2. 本丸館の主な間取りは、金の間(城主御座所)、書院、溜りの間、広間、銅櫓、玄関、風呂場、調理場などがあって、畳数は404畳ほどあったとされる。この内金の間は、内縁共89畳、襖は全て金箔張りの絵襖で、廊下で銅櫓につながっていた。
  3. 「玄関前には金をすり込んだ栗石が敷かれていたが、何時とはなしに拾われ稲葉氏所替えの時分にはほとんどなくなっていた」。・・・と、これも佐倉真佐子の記述である。

〔佐倉城天守閣の規模〕

三重四階(床下とも五階)

全 高   90,8尺(27、51m) 含むしゃちほこ

延べ面積 213坪

基部梁間 43、75尺(7間1尺余)

桁 行   50、0尺(8間2尺)

 

銅櫓の解体写真
銅櫓の解体写真
  1. 【銅櫓】
    6間四方、二階造り。この銅櫓は本丸の北隅にあって、天守閣との間隔は22間だった。本丸屋形の北端にあった金の間から張り出した棟で屋形と銅櫓はつながり、屋形の一部として使用されたものとみられる。平面がほぼ方形で壁面は上部三分の一が白壁、下部の三分の二が下見張りになっている。上層の屋根は方形造りになっていた。
  2. この銅櫓についてはいろんな話が伝えられている。佐倉城旧記(平野重久)によると、『此れは江戸城吹上の庭内に在りて不用となしたるを利勝に賜いしものなり』と記して、三層であったものを二層に直したものとしている。更に、『太田道灌(江戸城を最初に築城した人物)の燕所、或いは書斎ならんと云えり』と続いている。  

 

【角櫓】

 6間×7間の二階造り。平時は武器庫で、一部の記録(佐倉城旧記)によれば、「隅櫓と称する櫓は極めて粗悪にして、千葉氏の将門山なる根古屋城より移したる由、柱などに多く貫の穴などあり」とあるが、この信憑性は何ともいい難い。いずれにしても「極めて粗悪」であったことは確かで、寛政3年(1792)には大修理をしているが、明治6年の取り壊しまでかろうじて持ちこたえていたものと思われる。この角櫓には佐倉の大工が造ったといわれる木製で高さ8尺の鯱鉾が載っていた。

 

【台所門】

本丸南に裏門として置かれたもので、規模は梁間3間の桁行き7間で、畳6畳二間の二階造りだった。台所門入って左手に2間×7間の長屋が置かれていた。しかし文化3年(1806)に大破したため、以降は木戸門に代えられた。

 

【本丸内のその他の施設】

  1. 御囲瓦塀・・・本丸を廻る崖上土塁には白壁の瓦塀がぐるりと廻らされ、総延長208間×4寸と記録されている。
  2. 石落し口・・・土塁の上の御囲塀には8か所の石落し口があった。天守閣の後ろ、銅櫓の後ろと北側、一の門右手の土手上、台所門左手の土手上、本丸南端角、角櫓の北と東側の以上8個所である。空堀や崖から攻め上がる敵にとってこの石落としは、攻め難い仕掛けになったことだろう。
  3. 犬走り・・・土塁の上の御囲塀の外縁に沿って幅の狭い通路があり、これを犬走りと呼んでいた。
  4. 井戸・・・寛永年間(1630年前後)に掘られた井戸が本丸館台所近くにあった。今も地盤を注意深く見ればその痕跡を確認する事が出来る。
  5. 不動堂・・・堀田正亮城主が入封した直後の宝暦3年(1753)、天守閣南8間ほどの位置に堂宇があって不動明王が祀られた。

椎の木御門から田町門へ

【椎の木御門・馬出】

  1. 搦め手になる田町門と椎の木門の位置関係は、間に惣曲輪を挟むような形である。椎の木門の前方には角馬出を配して防備を固めていた。規模は、梁間3間、桁行き7間、2階造り、6畳二間の畳敷き部屋があった。門には板笠の袖掛塀16間がつながり、矢狭間は10か所にあった。
  2. 馬出とは、門の前方に築いて、人馬の動きを敵に悟られないようにして守備と反撃の拠点にする縄張りのことで、佐倉城は形が「コ」の字型、いわゆる角馬出になっていた。馬出の周りを土塁で囲みその外側に空堀を張り巡らす構成で、空堀は東西20間、南北89間と記録に残っている。
  3. この馬出は軍隊の営所時代に埋められたが、現在、再現された角馬出があって往時の様子を知る事が出来る。

 

惣曲輪と椎の木曲輪】

  1. 角馬出の北東に広がる台地が惣曲輪と椎の木曲輪である。江戸時代中期頃までは北側(椎の木門から見て左側)の惣曲輪に藩主下屋敷があったが、江戸後期の堀田氏時代には此処は調練場になっていた。
  2. 右手の椎の木曲輪には上層から中級の藩士を中心にした武家屋敷が並び、幕末には椎の木長屋などもあった。この辺一帯は昭和58年に開館した歴史民俗博物館の敷地になっているが、明治から第二次大戦終結まで、連隊の中枢部として多くの兵舎が並んでいた。

 

【田町門】

  1. 田町門は佐倉城の搦め手となる門で、造りは瓦葺きの冠木門で鯱ほこ付きの平屋といわれている。しかし写真や記録等が一切なくはっきりとイメージできるものはない。門前の水堀には土橋がかけられており、左右に袖瓦塀、その他にも掛塀や柵などが備わっていたと伝えられているが、根拠になる手掛かりはない。
  2. ただ田町門跡と推定される水堀の土手には今も木杭の一部が確認でき、これは土橋跡の痕跡の一部とみられる。

 

【鹿島不明門】

  1. 田町門から西に延びた堀(五の堀)は30間堀につながり、その行き止まりに鹿島不明門があった。造りは梁間4間、桁行き6間の二階造りで、板笠袖塀や枡形竹矢来等が設けられていたから、規模としては結構大きかったといえる。
  2. 古今佐倉真佐子に、『あかず門、二階門にて有之、是は篭城の折りの落口の門也、かわら葺きシャチホコ付き、一切開けず閉め切り、番人なし、この門の外川にて、あし、まこもの類一面に生え大竹大木うえごみし故、通りより門一切見えず』とある。
  3. 江戸後期堀田氏の時代には、この門は倉庫として使用していたが、低湿地のため印旛沼の増水の時などには浸水し、老朽の為文化9年(1812)頃には取り壊したようである。
円正寺跡の現在の風景
円正寺跡の現在の風景

【愛宕社・五社・円正寺】

  1.  現在の歴史民族博物館への進入路は、かつて佐倉城があった時は椎の木曲輪から田町門へ下る愛宕坂という道だった。また、此処には明治以降の連隊時代には営門があった所でもある。
  2. この坂の降り口の一角には愛宕社や五社、それに円正寺等の神社仏閣があった。円正寺の門前を10間ほど進んだところに朱の鳥居があって、境内左に愛宕社、右手に五社が祀られていた。今も基壇の一部と思える石が一部残っている。連隊駐屯時代にはここには将校クラブがあった所でもある。
  3. 円正寺は土井利勝築城後に、広小路(利勝時代は広町と呼んでいた)の所にあったものを此処に移したといわれている。真言宗の寺院で明治の廃仏毀釈で消滅した。
  4. 愛宕社は地元田町の氏神樣で、今は佐倉市庁舎の西側下に移して祀られている。愛宕社の祭神は将軍地蔵で、馬に乗った2尺ほどの彩色木造が祀られ、戦いの神、飢餓救済の神として崇められていた。
  5. 五社とは天照大神・春日大明神・鹿島大明神・客人(まれひと)大明神・八幡大菩薩をいい、何れも3尺ほどの彩色立像が祀られていた。

 

その他のポイント

【姥ヶ池】

  1.  椎の木門の馬出の右側を南方向に降った所に、姥ヶ池という小さな池がある。江戸時代には「かきつばた」の名所でもあった所でもあった。城内の用水池という説もあるが、鹿島台の清水がわき出るところで早くから池になって鮒がたくさん住んでいたともいわれる。
  2. 天保年間、家老の娘の守役だった姥が、娘に花を採ってほしいとせがまれ、その花を採っている隙に娘が池に落ちてしまった。娘を助けることができず困り果てた姥は池に身を投げてしまった。そうしたことから「姥ヶ池」という名称がついたといわれている。
  3. この姥ヶ池に関しては幾つもの伝説が伝えられており、今は遊歩道、梅林、東屋などがすぐ側に整備され、夏から秋にかけては池面いっぱいに水連が咲き競い城跡の名勝の一つになっている。

 

【ゴケ曲輪】

 椎の木曲輪の台地南下と、天神社があった台地西下との間の低地を「ゴケ曲輪と呼んでいた。足軽長屋や組長屋があった時代もあるが、「ゴケという地名が屋敷が5軒あったことから「ゴケ」となったとか、中世に千葉氏の御家人が住んでいたから付けられたという見方など、名前の由来に諸説あるがその何れかは不明である。

 

【鷹匠町・根曲輪】

  1. 鷹匠町は城郭南東部の崖下に展開しているが、佐倉藩では早くから鷹匠を置いてここに鷹方役所などもあった。名実ともに鷹匠町が今の場所にできたのは寛文年間(1660年代)頃とされる。江戸中期以降の堀田氏時代には鷹方を廃止したので鷹方はおらず、独立した武家屋敷や組長屋があった。
  2. 根曲輪は、惣曲輪の北側崖下と30間堀との間に東西に延びる帯状の曲輪で、江戸時代初期から中期にかけては武家屋敷などがあった。しかし此処は低地だった故に住環境が悪く、幕末には厩や馬場、畑などに変わっていき、幕末堀田氏時代には火薬製造所などが置かれた。

 

【帯曲輪と出丸】

  1. 現在の佐倉城跡の本丸台所門跡の前を西に向かって少し坂道を下ると、急崖の途中に右方向に本丸を取り囲むように小道が続いている。これが帯曲輪であって城の防御に備えたもので場外からは一切見えない。この帯曲輪については、土井利勝築城時の縄張りでは薬研形の空堀だったものが、時代とともに埋まって現状のような平らな帯状曲輪になったといわれる。
  2. この帯曲輪のほうへ曲がらずにさらに下ると、水掘りに囲まれた出丸跡に出る。ここには清水御門があって、堀を渡って場外に出る時使う引き橋が備えられていた。

 

城跡に設営された佐倉連隊の概要

明治政府は歴史と自然が残した要害の地佐倉を軍都と定め、明治6年に第一軍管東京鎮台の営所を佐倉城跡地に置き、翌7年に歩兵第二連隊が佐倉に駐屯した。その後は世界情勢や軍の組織変更などもあって、佐倉に駐屯する軍隊も数度の変遷を経るが、明治38年からは57連隊が駐屯する事になった。

明治6年1月 佐倉に第一軍管歩兵第2連隊の設置が決定。
明治7年5月 第一大隊が東京から佐倉に移った。これが実質的な佐倉連隊の

始まり。

 

◇明治6年佐倉に営所が決まった時、廃藩後もそのまま城内に

  住んでいた旧藩士やその家族は急いで立ち退くことになった。

明治38年7月

 歩兵57連隊が新設され、衛戍地を佐倉町、徴兵区域を千葉県下

一円と定め、ここに57連隊の編成が確立した。

 
 

房総の郷土部隊としての57連隊は、大正5年8月の青島守備、12年9月の関東大震災後の救援と警戒、そして昭和に入っては2.26事件の警備に当たった。2.26事件後は満州に移駐し、太平洋戦争で主力はレイテ島にて終戦となった。

≪佐倉城跡散策の項 おわり≫

 

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