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【古今佐倉真佐子(佐倉古今真佐子)】
元禄14年(1701)から享保8年(1723)まで佐倉城主であった、稲葉正往・正知の家臣「渡辺善衛門守由」によって記されたもので、彼が佐倉に居住していた正徳年間(1711~1716)前後の佐倉の風俗や見聞・伝説などが綴られている。
内容は当時の出来事・事件を中心に多岐に渡っており、また、佐倉城下町の様子を詳しく絵図に表した「佐倉城府内乃図」があり、当時の城下町や城付領内の様子を知る上で貴重な資料となっている。
成立年代の明記はないが、彼が後に山城国淀(現在の京都府)で記した「淀古今真佐子」の天守の項の記述内容に照らして、宝歴年間の1756年以前の編纂と考えられている。
「真佐子」は「真砂」をもじったもので、佐倉での数限りない多くの思い出という意味を持たせたものといわれており、その内容は佐倉に住んでいた時代の事だけに留まらず、それ以前の出来事や伝承なども書き綴られていることから「古今」という題名が加えられたと思われる。
■渡辺善衛門守由
渡辺善右衛門守由(150石どりの藩士)は江戸の稲葉藩邸で元禄14年に生まれた。翌年11月、父と佐倉へ移り最初は海隣寺曲輪(現在の並木町140番地代)の清兵衛長屋に居住したが、間もなく鏑木小路《付図では河北長左衛門屋敷となっている所》に移り住んだ。
正徳2年(1712)3月、守由12歳の時、父の江戸詰めで再度江戸に行き小川町の藩邸に居住。
同年6月、16歳で家督《父の名善衛門を襲名(後に善右衛門)》を継ぎ、佐倉勝手役となり享保2年(1717)3月再び佐倉に移り、現在の並木町200番地代(舟見町)に住み(付図ではこの場所に善右衛門屋敷が記されている)、同8年7月17日、山城国淀転封になるまで過ごした。
つまり、善右衛門が佐倉に居住した期間は、幼年時の10年と、家督を継いでからの5年、合わせて15年ということになる。その15年間に見聞した佐倉での様子を書き綴ったのが、「古今佐倉真佐子」である。
「古今佐倉真佐子」附図
【1】追手門(大手門)・広小路の様子
1.『追手門(大手門)をてうな門と呼びます。この門の外田邊権右衛門の屋敷の脇、空堀の向こうの大杉並木には、毎日夕七ツ半時頃から日暮れ前までには佐倉中のカラスが集まって止まります。翌朝には四方へ飛び去るが、おびただしいカラスで鳴き声がやかましい・・・。』
2.追手門は鯱がついた瓦葺き二階建で、門の下では足軽が警備している。門の外は十五間四方程の枡形の土手を巡らし、そこには大きな杉の並木があって根元には竹囲がある。
枡形の土手の外左の方向に、こけら葺の2階建ての矢倉があり時を伝える釣鐘がある。出火の際にもこの矢倉で早鐘が打たれた。
3.広小路脇の各屋敷には長屋門や塀があり、屋根は板屋根で白壁造りです。万祥院殿(稲葉正知)が城にお帰りになる時と江戸へ発たれるときには、家臣たちは道の片側へ出て万祥院殿にお目にかかりました。
夜中の時には広小路の左右の屋敷の門の前に、高提灯の大きいもの二張と小さいもの一張りずつを夜明けまで立てました。江戸へ発たれるのはほとんどが朝です。広小路全体が普段から立派で、ここは佐倉の大名小路です。
【2】本丸・一の門・対面所
1.本丸玄関前の真東に二階建ての一の門がある。番兵が見張る番所が設けてあり、平日には下級武士が門番をしている。屋根はすべて瓦葺きで鯱が付いていた。
この門の外、南の方に瓦葺きで鯱がついている門があり、不明門(台所門)といって番人はおらず門は締め切りになっている。
2.不明門の中少し先に塀で仕切られた入口がある。外は東西に長く南北は狭く馬場のようになっており、その先突き当たりにまた塀があって入口がある。いつもは閉まっているが、この入口を入って地面が少し高くなった所に天守がある。
3.天守は四重であるが、一重部分は隠れて見えないので三重に見える。
(原文では「重」になっているが、「階」の意)
屋根は瓦葺きで鯱がついており、本丸から見ると富士山の南角方向になる。また、銅櫓は二階建てで、本丸の後ろ西の方にある金蔵です。屋根は全て銅瓦で葺いてある。
三重(?)の矢櫓(角櫓)は瓦葺きで、本丸の正面南の方向にある。
4.本丸には天守が一つと櫓が二つ、あわせて三つの櫓があり、三重櫓の屋根にも鯱が付いている。ある年大風が吹き、三重櫓の鯱が落ちてしまった。その時、爪先で立ち背伸びして手をいっぱい広げたが、手よりはるかに上に尻尾があった。これは佐倉の大工達が木彫で造ったもので、その後聞いたところ八尺あるとのことだった。
5.本丸屋形(本丸御殿)の屋根は全てこけら葺で、佐倉にはこけら屋根を葺く職人がいないので修理の時には江戸から職人が来て葺いた。
6.本丸御殿は全て白壁です。本丸の玄関前には全て栗石が敷かれており、この栗石の表と裏には「ぼうふり小紋」や「あられ小紋」、「丁字小紋」などが彫り込んであり、昔はこの石に金をすり込んで敷いていたという言い伝えがある。正知殿が佐倉藩の殿様であった頃まではこのような栗石はあったが、淀へ転封の頃には多くが拾われてしまいほとんどなくなってしまった。
7.本丸は東西南北ぐるりと瓦屋根のついた腰板部分が白壁の塀で囲われ、そこに鉄砲や矢をうつ狭間がある。東側から南側と北側にかけては塀の外に深さ三十間(?)程の空堀がある。堀は薬研堀で芝が張ってある。
8.本丸の後ろは山岸(崖)になっていて堀はない。上から四~五間(?)程下に帯曲輪といった細い道があるが、木が遮って外を見ることは全くできない。その下三十間程(?)の所には、二の門の下辺りまで水堀が続き、その辺から見上げれば崖の上は結構高く、天守は木立に囲まれて見ることはできない。水堀の深さはわからないが、水は濃い青色をして景色は寒々としており、この堀の主は「うわばみ」(大蛇)です。
9.対面所には、城主が在城の時には沢山の人があちこちの部屋に詰めていますが、留守の時は広間と目付部屋のみにしか詰めておらず、殿中は締め切り同然です。
【3】二の門から三の門へ向かって
1.二の門から三の門の間は左右とも屋敷になっており、左側には八太内蔵允屋敷、右側には金万定右衛門屋敷がある。金万定右衛門屋敷前の角の門の内側に、間口9尺、奥行4間位の士番所がある。この内へ入ると、先の方に台所が一棟有り、床の間(一段高く物を飾る場所)には弓や鉄砲が飾ってある。
2.三の門は二階建ての瓦屋根、門の下で足軽が見張りをしている。門の外の左側は空堀で、八太内蔵允屋敷脇にあたる。
ここには堀に沿って大きな杉の木の並木があり、根元に竹矢来がある。この先を行くと空堀は鍵の手になっていて、ここにも杉並木がある。空堀は内蔵允屋敷の端と稲葉大右衛門屋敷との境を通って七曲の坂下まで続き、そこが堀留になっている。
≪浅間神社・センゲン坂≫
3.内蔵允屋敷の門の真向かいで金万定右衛門屋敷の脇に冠木門が一つあり左右に少し塀がある。門の外には大きな坂(センゲン坂)がある。
門の際から二股に分かれていて、左の坂道を三間程行くと上にまた門がある。松の大木がある山でなんとなく薄暗いが、この門の内の丹塗りの鳥居の先に佐倉城鎮守の浅間神社がある。中に二間四方程の草屋根の祠がある。
4.毎年六月朔日の祭礼には神輿が神前に飾られるが、この神輿は何処へも渡御することはない。勝蔵院の別当僧侶と浅間神社の神主・宮越相馬は,正装して終日神前に詰めています。
5.祭りの日には定右衛門屋敷では毎年冷麦を沢山作り、一門の者を集めて終日浅間祭りを楽しみます。この浅間神社には通常は行者は来ませんが、この祭礼の日だけはやって来ます。また、当日は少しばかりの菓子を売ろうと町方からも人がやって来ます。
6.浅間神社の前の坂を右の方へ行くとこの山のふもとに出ます。そのふもとを2丁ほど下ると右の方に鷹部屋があり、ここは鷹匠町といいます。
【4】二の門辺り
1.二の門は二階建て瓦葺きで鯱がついている。この門を入ると中ほどに間口九尺、奥行四間の番所があって、昼は一人、夜は二人の警備の者が詰めている。
この番所は下屋敷ができた後に建てられたが、対面所の番人や目付部屋番人が下屋敷に移動になった後では、二の門の番人が対面所を警備することになった。
領主がお通りになる時には外に出て昼夜とも警備をします。その時、警備の者は速やかに門の近くにある足軽詰所の弓矢や鉄砲を運び、番所の中に床を作って飾った。しかし国替えの1~2年前からこの番所の役目は三の門の番所へ引き継がれ、この番所は取壊された。
2.二の門の外へ出ると、左の方に小さな芝を張った土手があり、人の背丈ぐらいの松が一面に植えてある。根元には二つに割った竹で組んだ矢来がある。また、本丸、二の丸、三の丸の各々の空堀の幅はいずれも二十間余りある。右側の松並木の下は大きな崖になっており、一面に芝が張ってあり天守下の水堀へと続いている。
3.左側は塀で囲まれ留守居組が警備している。塀の屋根は瓦葺きで、白壁の腰板には鉄砲、矢を射るための穴が開けてあり、塀の外は空堀が門まで鍵の手に掘られている。二の門の出入口は土橋になっている。
4.二の門から三の門の方へ向かっては芝を張った大きな土手があり、大きな杉並木の根元には竹矢来がある。土手の先は空堀であるが、この土手に遮られて二の門前から三の門の方は見渡すことができない。
5.二の門の前を左に行った角は鍵の手になっており、そこに長さ十四~五間の小姓長屋がある。屋根はこけら葺きで、棟には棟瓦があり周りは白壁に腰板付きとなっている。ここは藩主が在城の折、藩士や徒歩、側近の者が控える長屋である。
≪米蔵・御城米蔵・不明門・対面所≫
6.この長屋の前は二の門の堀端で、ここを左に行くと行き当たりには高い竹矢来が二十間ほど続いている。入口の門が二つあり、一つは行き当たりの所、もう一つは折曲って行った先にある。この門は両方共冠木門で、この門の内、前方三十間程の所に草屋根で長屋造りの米蔵がある。
この米蔵から家臣たちへ飯米を渡すが、秋になり年貢米を納める時期になるとあちこちの村から米を積んで来る馬で道がいっぱいになる。
7.一ノ門の外北方向の先に二階建ての門が見え、不明門となって内側には城米蔵がある。城米蔵の脇では留守居組が番をしています。門は平日は締切りですが年始と五節句には開きます。
8.この城米蔵不明門の内の東側に屋敷が一つ建っており対面所といいます。城主が城に帰ってきた時や江戸へ出府するまではこの対面所に住み、本丸は権現公が腰掛けられたので恐れ多くて代々の城主は本丸には住みませんでした。
対面所は三人が組になって昼夜見張りをする。日暮れになると一人ずつ天守近くまで見回りに行きます。その他に目付部屋があって目付が詰めている。城主が在城の時には沢山の人があちこちの部屋に詰めているが、留守の時は広間と目付部屋のみしか詰めておらず、殿中は締切り同然になる。
不明門の外左角に長屋門のある留守居役屋敷があり、安田勘左衛門が住んでいます。この屋敷の前左には同じ留守居役屋敷があり熊木孫兵衛が住み、屋敷の前には番所があって、その番所の側に見張りのついた椎木門がある。
【5】椎木門・椎木曲輪
1.見張り所のついた椎木門は二階建ての瓦葺きで、屋根には鯱がついている。門の前は土橋になっており、土橋の左右は空堀になっている。土橋の前の角馬出しは正面と左右に土手があり、「コ」の字型になっている。
土橋を渡ると左右に食い違いのある土手があり、すべての土手には芝生が張られて大杉の並木になっている。
2.馬出の外は空堀になっており、空堀の杉並木の根元に竹矢来はない。この馬出は東西約二十間(?)、南北八~九間程(?)で、馬出の内側から左へ行くと堀先まで竹囲いがあって、堀の反対側は大杉並木で根元には竹矢来がある。
この堀端の先はヘビ坂という坂道で、鍵の手に曲がって長さは二丁余り、坂を下って行くと根曲輪に出る。
ヘビ坂の左右には大きな杉並木があり、その杉の木の上は枝が幾十にも重なり合い、昼間でも暗く日の射すことはない。此処は何時もジメジメした湿地で魔所になっている。
・・・・・≪ヘビ坂の怪≫
3.椎の木門からヘビ坂の方へ行く道の中程、下屋敷表門へ行く坂の方に大書院の庭の塀がある。下屋敷は長さ三丁程の一棟の細長い建物で、途中で少し鍵の手になって一部が通りの方へ突き出ている。そこより一丁程行くと棟続きの長屋があり、ここに裏門がある。
4.この長屋の端には的場十郎左衛門の屋敷が一軒あり、その前より愛宕坂で長さは2丁ほどである。この愛宕坂の近くに秋月亭という茶屋があり、菱形に建っていて菱の茶屋、またはくず屋の茶屋ともいう。ここから東、北、西方向一面が見渡せ、角来村、印西、瀬戸、飯野、下根、山の崎、飯田、岩名、杓子尾余(しゃくしびよ・現在の最上尾余)辺りが一望できる。
≪下屋敷≫
5.正徳年間(1711~16)、隠居中の稲葉正通(正往)様が幕府に願い出て一年佐倉へお越しになり、八太覚太夫の屋敷で家老屋敷だった建物と、他に二、三軒の武家屋敷を壊して、ここに下屋敷を建てられた。
庭などは正通様の好みに合わせて造られており、京都所司代を命じられていた頃、河洲(現大阪府河内市)で領地を頂いていたことがあり、そこかられんげ草の種を取り寄せ花畑にお植えになった。関東ではれんげ草がないので大変珍しいものだった。
6.その後、万祥院(稲葉正知)殿がご在城の時にはこの下屋敷にお住まいになったので、家臣たちはこの下屋敷へ出向いて節句や毎月の礼を述べていた。
しかし、年始の御礼は対面所で行っていたし、また、万祥院殿が留守の時には節供の御礼も対面所で行っていました。
7.下屋敷が建てられた時、江戸から役者をお招きになり、鏑木の大聖院客殿で十日間に渡り能が演じられました。
万祥院殿は、武士やその居候、そして町人たちに能を拝見するようにと申されたので、大聖院客殿へ出かけていって拝見した。この時に煮しめと赤飯を下された。
■『下屋敷の書院に毎夜八、九歳くらいの「カムロ」(オカッパ頭の子供)が出てきて遊んでいます。遊んでいるだけで何か悪さをするようなことはしません。書院の杉の板戸に描かれたオカッパ頭の普通によくある古い絵ですが、カムロがその絵から抜け出して遊んでいるということです。私は夜の警備の時に一夜カムロの歩く足音を聞いたことがあり、それは人が歩くような足音だった。
【6】愛宕坂・愛宕神社・円正寺
1.愛宕坂の長さは二丁余りで、左右は大きな松や榎類の並木になっている。この坂も魔所の一つです。
・・・・・≪茶釜の話≫・・・・・
2.的場十郎左衛門屋敷の向かい側は愛宕社の別当の円正寺で、大変貧しい寺です。
門前の坂を愛宕神社の入り口の方へ十間程行くと、朱塗りの大きな鳥居があり、この鳥居の内左の方に愛宕神社、右の方には五社神社があり、両社とも草葺屋根の二間四方程の大きさです。
鳥居より十六~七間程行った所で少し高くなった場所に両社はあります。前には坂があり、長さは二間程、丸い敷石の階段がついています。西、北、東側は大松が生えており、南の方は円正寺の大藪があります。
3.愛宕神社の祭神は正軍地蔵(勝軍地蔵)《軍神として崇敬される地蔵菩薩》です。甲冑を付け馬にまたがった二尺ほどの高さで、新しい色塗りの木像です。
五社とは、天照大神、春日大明神、鹿島大明神、客仁大明神(まれひと)、八幡大菩薩の五社をいいます。五社はいずれも身の丈三尺程の木造の立像で、色が塗られたのは最近です。一年中開帳されていていつでも参拝できます。
4.愛宕社と五社の前の松ノ木に釘が打ち付けてあります。円正寺で祈念の上この釘を抜こうとしましたが抜けなかった。一本の松ノ木に三本程ずつあり、松ヤニと釘の錆が混じって付着しており、汚いので抜くのを止めました。
ここの坂では「丑の刻参り」をしている人に出会う事もあると、大島義右衛門から直接話を聞いた事もあり、時々丑の刻参りが行われているようです。
5.愛宕神社と五社神社の前の山の木立の間から、西、北、東の方を見渡せば、印西、瀬戸、飯野、山之崎、飯田村、岩名村あたり一面がよく見えます。
■日光水の様子の記述の中に次のような一文があります。
『・・・。日光連山に降った雨が、利根川を通り印旛沼に流れ込んでよく大水が出る所で、水位が上がると床上まで水が来ます。・・・』(中略)
『・・・大水の時には、各々が愛宕山へ行って神社の後ろ辺りから日光水の様子を見物し、ことのほか面白いことでした。
家の中へ水が入る時の騒ぎや、水の中を逃げる姿など、まるで敗軍が逃げていくときの混雑やあわてぶりに似ていて、見物していて面白いものでした。・・・』
【7】根古谷から田町門・ゴケ曲輪
1.天守の下の水堀のほとりを北の方へ行くと畑のある所へ出る。左は藪や木立になっているが、そこに二階造りの瓦葺きで、シャチホコが付いた不明門(鹿島門)がある。
この門は籠城の時の逃げ口となる場所で、門は一切開かず締め切ったままで番人もいません。
門の外は川で、そこには葦やマコモ類が一面に生え、大きな竹や木の植え込みがあって通りから門は一切見えない。又、この門は江戸への道に通じている。
2.田町門は、瓦葺きの大きな冠木門で、門にはシャチホコが付いている。門の前は土橋になっており、その左右は水堀で、堀には川魚が沢山住んでいます。門の内側の愛宕山の際に、こけら葺きの番所があり、同心が二人ずつ詰めている。この田町門は搦手になります。
3.田町門の番所前を進むと、左の方は一面藪で、右の方は鵜の糞山の下の留守組長屋の前に、更に、その先を山際に沿って進むと杉坂の下に出ます。
4.この辺りに鵜の鳥が年中棲みつき春には巣をつくります。
この木の下は小笹が山のように茂り、鵜が獲ってきた魚が沢山落ちて、この山下にある留守居組長屋の人がこの魚を拾います。この辺りは鵜の糞で一面が白くなり雪の中にいるようです。
数百羽の鵜が木に止まるので糞で木が枯れかかり、そこで正知殿が淀へ転封する前年頃、全ての枝を打ち落しました。すると、今度は鵜が止まることができなくなり、かえって鳴き声がやかましくなりました。この辺りは皆から「うのくそ山」と呼ばれています。
5.杉坂の下をそのまま進むと、道が二筋に分かれており、右へ行くと水花壇の所に出ます。この水花壇は下屋敷が出来た時に造られ、竹垣の内は二十間四方程で、一面谷になっていてジクジク湿って青草が芝のように生えている。真ん中には南北に伸びた細長い池があり、池には紫色のカキツバタが咲いています。
6.左側の方に一丁半程行くと、右角に和田治太夫の屋敷があります。和田屋敷前から大きな坂・七曲坂があり、この坂を一丁ほど上り、更に右の方へ一丁程上ると天神曲輪へ出ます。
7.和田屋敷の向かい側には三十間四方程の畑が広がり、畑の向こうは一面藪になっている。その先は鍛治作村になります。
≪姥ヶ池≫(原文は「ため池」)
水花壇の角を右に進むと臼田里兵衛屋敷があり、屋敷の脇に池があって鮒が沢山住んでいます。しかし、流れのないため池なので飲むのは良くありません。
ため池では、毎春三月末には蛙合戦があります。
・・・・・≪蛙合戦の話≫
【8】天神社・大乗院曲輪の様子
1.七曲りの坂上を左の方へ少し曲がっていくと天神の社があり、右の方には別当寺の大正院(大乗院)という真言宗の寺がありますが、門がなく、まるで小屋掛けの様で貧相な寺です。
天神社には朱塗りの木の鳥居があり、その内側右は杉並木で、その向こうは別当院の門前で、左の方には釣鐘があります。堀田上野介殿が寄進した大きな釣鐘で、そのことは鐘に刻まれています。
・・・・・≪龍頭から汗をかく話≫
2.この鐘から少し先へ進むと左右に社があり、左側に一間四方程の草屋根の稲荷社、右の方に同じくらいの大きさの天神社があり、両社とも神前には御簾が懸けられています。
≪「佐倉城内の様子」の項 終わり≫