旧堀田邸

旧堀田邸冠木門正面
旧堀田邸冠木門正面

 最後の佐倉藩主で明治になって伯爵になった堀田正倫の邸宅で、明治時代の上級和風邸宅としては庭園とともに残っている貴重な建造物です。自然の地形を利用した庭園は、眼下の田園風景や下総台地を借景にした庭園になっており、今は「さくら庭園」という愛称で親しまれ、松・百日紅などの樹木や庭全体に配置された景石などが調和して、一年中美しい景観を楽しむ事ができます。

1.堀田邸の建設経過と地理的環境

堀田邸の母屋・庭などの位置関係
堀田邸の母屋・庭などの位置関係

 旧堀田邸は、最後の佐倉藩主・堀田正倫が、東京深川区深川佐賀町から佐倉に移住するため、庭園とともに新しく建築した純和風木造住宅で、JR佐倉駅北東1,3㎞、高崎川北岸の田園に臨んだ風光明美な高台にあって、素晴らしい眺望を取り込む形で建物が配置されている。

 

 堀田正倫は、明治4年の廃藩置県にともない佐倉藩知事を免職された後、東京深川佐賀町の屋敷で華族としての生活とともに日々勉学に励み、そして、明治17年の華族令では伯爵の爵位を授けられた。その後、明治20年、華族の地方居住が認められるのを機会に、旧領佐倉鏑木町に用地約66,000㎡(20,000坪)を購入して佐倉別邸を計画し、同23年の竣工と同時に以降は家族とともに佐倉に居した。

 

 建築は東京の大工棟梁「西村市右衛門」の手による純和風木造住宅で、良質の材料を用いて入念に施行された大規模な建物と、広大な庭園が調和した明治期における上級和風住宅です。

 建物は居間棟を中心に置き、東側に玄関棟、、南側に座敷棟、西側に書斎棟、北側に台所棟の五つの棟からなっている。そして、建築に使う材料や意匠については、各棟ごとに意識的に使い分けがなされており、座敷棟には最高級の材料を使用しているが、台所とか使用人が使用するスペースははっきりと材料の質を落としている。

 残された普請文書の一つ「佐倉御別邸新建築材木調書」によると、建物の新築の際に使用した材木が産地を含め細かく指定されており、これらは全て東京深川で刻み、その多くの建築資材は利根川経由や千葉・登戸を経由して船と馬車で運んだと記されている。

 

 それから110年近く経った平成9年、所有者の行為によって建物の寄贈を受けた佐倉市は、庭園を含め市指定文化財(名勝)にするとともに、建物全体の修復工事を平成9年から11年にかけて行った。

 工事完了後の平成11年11月2日からは一般公開が始まり、その後、平成13年3月31日に千葉県指定文化財(名勝)に、そして平成18年7月5日付で「国の重要文化財(建造物)」に指定された。

 

復元後の旧堀田邸間取り
復元後の旧堀田邸間取り

2.堀田邸の概要

この門の奥に母屋が展開している
この門の奥に母屋が展開している

 旧堀田邸が建築された明治20年代の日本の建築技術は、江戸時代からの伝統技術に洋風技術が新たに導入され、近代化への過渡期にあたる時代であった。

 電灯に代表されるように生活基盤も徐々に変化してきた時代で、この堀田邸も材料や工法の一部に近代化の要素を取り入れつつ、伝統的な技術を基本にした旧大名家の邸宅建築で、その仕様は純和風の木造住宅になっている。

 近世から近代におけるこうした旧大名家の上級住宅は遺例が少なく、現存する多くは洋風または和洋折衷で、堀田邸のように旧大名家の建築した純和風住宅は全国で三例≪堀田邸の他に、松戸市の戸定邸(旧水戸藩別邸、鹿児島市の磯御殿(旧島津藩別邸)≫を見るのみとも言われています。

 

 旧堀田邸は明治23年(1890)の竣工で、 当時の時代様式を色濃く反映しており、純和風木造住宅で洋館などは一切付属していない。建築当初の規模は750㎡(約227坪)と非常に大きな屋敷で、更に、その後に子供部屋や湯殿棟が増築されたようである。(但し、平成の復元では子供部屋や台所棟は敷地の関係等で復元されなかった。)

 

 旧堀田邸の住居部は、東京で材料を調達し、東京の職人が部材に加工したものを佐倉に運搬して建築された。佐倉で調達した材料は仮設養生材や壁土の一部のみで、職人も鳶職の人材以外全て東京の職人の手で行われている。つまり堀田邸は、明治20年代の東京の邸宅建築技術で建築されており、特徴として材料の工法の一部に近代化の現象もみられるが、基本的には伝統的な江戸様式を基調にしているといえる。

 

 佐倉近辺の商家や豪農の当時の住まいに、大規模で堅牢な遺構が存在してかなり高い建築技術の存在が確認されているのに、あえて東京の材料や職人を選んだ理由として考えられるのは、佐倉地方の材料流通体制の不備や、この地方の建築生産体制が、現在のように設計者が現場の管理も行うような仕組みがまだ確立されてなく、その過渡期にあったことなどが推測されている。

 

 当時の旧諸侯の華族邸の機能としては、家族の生活とそれを維持する家政が中心で、一般的には、社会的な接客と経済的な運営をつかさどる表方と、家族の日常生活を維持する内方に分れていた。

 旧堀田邸の平面構成は、玄関棟を含めた座敷棟の接客と居間棟を中心とする家族の生活に分けられ、また、接客には公的の社会的なものと、親戚などを対象とする私的な内向きのものがあったと考えられる。

 そして、公的な接客には座敷棟を主にして、玄関棟の玄関・応接の間・畳廊下などが補助的な機能を持ち、私的な内向きの接客には玄関棟を入り口にして、御次の部屋を持つ居間棟、そして書斎棟の客室などが充てられたと考えられる。

3.堀田邸の特徴

 堀田邸の間取り全体のレイアウトは、全般的に近世上級武士の住宅形式を引き継いでいるといわれるが、近代の新しい生活に合わせた部分も多くあり、明治期の上級和風住宅の特色がよく出ている建物といえます。

 

1.

 

家族と多数の使用人(家令、家扶、家従等)のスペースにも十分配慮している。
  2. 室内が明るい。
 

3.

 

 

 

質実堅牢で、華美に流れず、質の高い木材を使った建築である。

 △格式を守った様式で華美な風潮は見られない。むしろ質素といえる。

 △木材の持つ産地別の材種・等級などの特徴を活かし、適材適所の

   原則を守って使用している。

 

4.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伝統技法に洋風建築技術の長所を取り入れ、安全性・耐久性に配慮している。

 △桁・梁の間に柱を通す「つば造り」工法で、一階から二階まで一本の

    柱で支えている。

 △火打ち抜き工法。

 △御寝の間や座敷などには二重床板の使用。

 △ボルト・ナットの使用といった新しい取り付け具が使用され、より強固

     な造りになっている。

 △書斎棟の屋根は杉皮で葺いた後に竹で抑え、それを荒縄で固定して

     いる。

 △人手や運搬など困難な制約条件のもと、可能な限り長大な部材を使

   用している。 座敷棟の軒桁などは青梅産の四谷丸太で7間の長尺物

    を使っている。

これらを総合すると、堀田邸の建築としての文化的価値が高い理由として下記が挙げられる。

1.和風様式で建築された旧大名家の邸宅で、現存する遺構の内末期の位置を占める

  貴重な存在である。

2.建築に関する資料がが多く残されており、建築年代当時の設計・施工技術全般を

  明らかにしている。

3.当主堀田正倫公の趣意書の理念を忠実に実行して、堅牢な施工で建築されてい

  る。

 

4.堀田邸の冠木門(正門)と庭園

1.冠木門

  1. 堀田邸の冠木門は、明治23年の母屋の竣工と同時期に完成していたものと思われる。その後、昭和43年、時の所有者によって一度建て替えが行われていたが、形や色について明治23年当時の忠実な復元とは言い難かったようであった。
  2. 冠木門と西隣にある門番小屋とは、同一構造体として造られており、木材の種類、太さなど、外部から見えるところには調和の工夫がみられる。
  3. 冠木門の特徴は以下のとおり。

(1)一間一戸冠木門両開き扉付き。

(2)東西合計6間の袖塀付きで1か所にくぐり戸が付いている。

(3)冠木門石畳付き、舗石は相州堅石を使用。

(4)袖塀に続いて笠木塀がつながっている。

(5)冠木にはヒノキ材使用。

(6)冠木門、笠木塀は全面渋墨塗りが2回施されている。

庭園東側の百日紅の花
庭園東側の百日紅の花

 

2.庭園と萱門

 

≪庭園≫

  1. 日本歴史庭園100選にもなっている堀田邸の庭園は、東京巣鴨の庭師・伊藤彦右衛門によって造られた近代和風庭園である。
  2. のびやかな広がりを見せる芝生の起伏に、所々に配された老松や置石、そして、雪見灯篭の調和が見事である。芝生を植え、傾斜をつくり樹木の刈り込みを配置するといった、和洋折衷の庭で、主木は赤松になっている。
  3. 高台に作庭されており、当時は南方眼下には田園風景が開け、高崎川(近くを流れている川の名前)の流れが見渡せるなど、自然の地形を活かした風景式庭園(借景)で、春には梅・桜、夏には百日紅、秋には紅葉、冬には椿と、四季折々の花が楽しめ、それに加えて、松がいつでも彩りを添えているといった、まさしく名園である。
  4. 低地とをつなぐ斜面には多くの木々が植えられており、今その地区は、鳥獣保護区に指定され、鳥の楽園になっている。うぐいす、ムクドリ、ヒヨドリ、めじろ、コジュケイ、ホオジロなどの鳥が飛来している。

 

≪萱門≫

  1. 旧堀田邸の庭園北西奥に丸太造りの門が建っている。切妻の萱ぶき屋根で、門の形式は「控柱付き腕木門」、一般的に萱門と呼んでいる。
  2. 門には、堀田正倫公の揮毫による「孤山餘韻」の扁額が掲げられており、また門を入った所は梅の名所としても有名で、その梅園の中には茶室があった。
  3. 往時には、その茶室と庭園との間の木戸門的な役割があったと思われ、今でも落ち着いた雰囲気をかもし、周りの緑豊かな木々と見事な調和を保っている。

◇この庭が北宋の詩人・林逋が隠棲した、中国杭州の西湖に浮かぶ島・「孤山」の情景に似通っているところから、「孤山余韻」の言葉が選ばれたともいわれている。

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