近世城郭を新たに築くときは宿場(集落)の近くに縄張りするのが普通であるが、佐倉城は、鹿島山に城を築きながら同時に新たな城下町を整備するという形だった。 そんな影響もあってか、城下町に存在する寺院は佐倉城築城以降の創建が多い。
寺院の紹介順序は散策順路や創建年代に関係なく、佐倉の歴史と特に関係の深い下記寺院を第一部にまとめて記述した。
【第一部】
1.甚大寺
(安城山甚大寺、天台宗)【十一面観世音菩薩】
堀田氏が山形城主時代に崇敬した寺で、延享3年(1746)、堀田正亮が山形から佐倉に転封するに伴い現在地に移した。佐倉藩主堀田氏の菩提寺で、墓所には堀田正俊、正睦、正倫等の墓があり、千葉県史跡指定になっている。
もともと安城山甚大寺は、元和元年(1615)に慈眼大師(天海大僧正が、天台宗比叡山延暦寺の末寺として山形城下に建立した寺であるといわれている。その後、元禄14年(1701)に山形城主であった堀田正虎が開基者となり当山を中興した。
その後、寛政年間(1789~1801)に、城主堀田正順が天下泰平万民農楽を祈り、守護仏とし四国象頭山より勧請した金毘羅大権現が城内に祀られていたのが、明治になって甚大寺に移され、大正末期からは毎月10日の縁日には多数の参拝者でにぎわっている。
大伽藍を要した旧本堂は明治初期の大火で焼失し、現在の本堂は、昭和36年に新たに建立したもので、建物は坂東28番所滑川龍正院(通商滑川観音)の薬師堂を移築する形で行われた。
墓所入り口右側に、二度に渡り幕府老中になった堀田正睦の追遠碑が建立されている。、没後20年の明治19年に除幕式が行なわれた時には、佐倉町全域で日章旗や神灯が掲げられ、町民挙げて建碑を祝ったと記録に残っている。
2.宗圓寺
(正覺山宗園寺 臨済宗)【観世音菩薩】
寛永19年(1642)に堀田正盛が信州松本から佐倉に所替えした時に創建された。佐倉に移封する前の堀田氏は、松本10万石の城主で、将軍家光の側近老中として飛ぶ鳥を落す勢いであった。 正盛は、自分の弟で脇坂家に養子に出ていた堀田佐兵衛安利が早世したのを悼み、松本城近くの慧光院の境内に霊を祀っていたが、佐倉移封時に、現在地に宗園寺を建立して安利の霊を移した。
宗園寺には、順天堂塾創設者の佐藤泰然を祖とする佐藤家の墓所が本堂側にあり、日本の医学の向上に携わった佐藤家代々の墓が並んでいる。また、墓地には、女優の故東山千枝子の祖父に当たる、佐倉藩士・家老渡辺弥一兵衛の墓がある。他にも佐倉藩主堀田家の重臣・金井右膳の墓や香宗我部家の墓がある。
3.松林寺
(玉宝山松林寺 浄土宗)【阿弥陀如来】
寛永7年(1630)、時の佐倉藩主土井利勝によって創建された。当時の境内の様子が描かれた古絵図が残されており、本堂を中心として観音堂、毘沙門堂、庫裡等が描かれ、当時はかなり大規模な寺院であった様子がわかる。
現在の本堂は創建期の観音堂であり、この建物は佐倉城下町の形成期に立てられた寺院建築として貴重なもので、また本堂の須弥壇左側にある厨子は、扉に葵の紋が付いており、家光公より戴いたという春日局の献上物だと伝えられている。
現在松林寺がある場所は、中世には武士の館があった跡ともいわれ、土井利勝が佐倉城を築城する際に本陣を構えた場所でもある。 寺入口の右側、道路に面した所に三基の宝篋印塔がある。土井利勝の養父母と利勝正室の供養塔で、それぞれの墓塔の台座部分には土井家の家紋である水車が据えられている。正面向かって左側が養父土井利昌、中央は養母、右側は利勝夫人のものである。この三基の供養塔は、佐倉城下町の基礎を造った土井利勝に関する資料として貴重なものである。 佐倉の三太郎の一人木村軍太郎の墓、成徳書院総裁の続 徳太郎(豊徳)の墓などがある。
4.海隣寺
(千葉山海隣寺 時宗)【阿弥陀如来】
戦国期に下総地方北部を支配した千葉氏の菩提寺として、千葉馬加(現千葉市幕張)に創建され、後に、千葉氏の本拠地本佐倉城近くに移された。その後、千葉氏が鹿島山に築城を始めたときに現在地に移したとされている。
海燐寺の墓地の中に、千葉氏一族の供養塔である五輪塔や宝篋印塔16基が並んでいる。これらは市内に残る千葉氏関連史跡として貴重な存在である。
本尊の阿弥陀如来像は、『冶承3年(1179)7月某日、千葉常胤が重臣を連れ海辺で月を観じていたとき、おりしも海上(幕張海岸)に威光を放つものあり、網を打って引き上げさせると見事な金色の阿弥陀如来像なり、文治3年(1187)、千葉市馬加の地に一寺を創建し本尊として安置した』と伝えられている。
佐倉藩の家老を務めた若林家の墓所の中に若林順積の墓がある。その墓石は佐倉城本丸方向に向いて建てられており、これは、『死してなお主君を守らん』との彼の遺書によるといわれている。
【第二部】
5.嶺南寺
(清淨山嶺南寺 曹洞宗)【釈迦如来】
信州松本藩主であった堀田正盛が佐倉に移封した時に創建した寺で、境内には樹齢約340年の「ヒイラギ」の保存樹があるが、これは開山当時に植えられたものといわれている。墓所には、作家吉川英治の母方の山上家の墓がある。英冶の母「いく」は、初代臼井町長山上弁三郎氏の三女である。
佐倉藩士の墓も多く、堀田正亮の子・堀田正泰の墓や、佐倉藩重臣の池浦家の墓、藩医の浜野了元・昇親子の墓などがある。
6.延覚寺
(法輪山延覚寺 浄土真宗) 【阿弥陀如来】
本堂前には大きな 鈴木清助巡査の供養塔が建っている。明治23年(1890)4月4日、佐倉警察の清助巡査は、川崎銀行佐倉支店から千葉の銀行に運ばれる国庫金の護衛をしていた。途中千葉市都賀の夫婦坂で、短銃を持った男に襲われて下腹部を撃たれたが、刀を抜いて応戦し強盗を逮捕する事が出来た。その後、鈴木巡査は収容先の病院で亡くなったが、我が身を省みず強盗に立ち向かった勇気に世間は感動し、この事件は芝居にも取り上げられた程で、俗にいう「夫婦坂事件」である。
その勇気、責任感の強さは全国的に知られ、延覚寺の墓の傍らに鈴木巡査の顕彰碑が建てられ、題字は当時の内閣総理大臣・山縣有朋が書いた。
7.勝全寺
(鹿島山勝全寺 曹洞宗) 【釈迦如来】
本佐倉城主千葉介勝胤の三男幹胤が、天文年間(1540年頃)に鹿島山で築城を始めた際に、一寺を建立したのが勝全寺であると伝えられている。
その後、千葉介邦胤が築城工事を再開した時に、勝全寺は宮 小路に移され、更に江戸時代、土井利勝による佐倉城築城に際し、現在地に再移転を余儀なくされたといわれている。
8.妙経寺
(長栄山妙経寺 日蓮宗) 【釈迦牟尼仏】
墓所には飯沼金太郎氏の建立した立派な飯沼家の墓がある。 金太郎は佐倉の中尾余町に生まれ、大正4年(1915)に佐倉中学校(現佐倉高校)卒業後、飛行家になる決心をしパイロッ トを志した。
東京大阪間無着陸飛行に参加したり、民間飛行家として活躍するとともに、昭和8年(1993)には亜細亜航空機関学校を創設し、校長として航空人育成に尽力するなど、民間航空界発展に寄与した人物で ある。
9.勝寿寺
(彌勒山勝寿寺 曹洞宗) 【弥勒菩薩】
本尊の弥勒菩薩が現在の町名「弥勒町」の起源となっている。また以前は弥勒の鎮守様である八幡神社の別当寺であった。
墓地内には佐倉藩家老植松家の墓があり、姥が池伝説にもなったお姫様の供養塔がある。
≪「夏室智涼禅童女」天保15年≫
10.教安寺
(二尊山教安寺 浄土宗) 【阿弥陀如来】
佐倉城主土井利勝時代の寛永2年(1625)に、将軍家よりの預かり人であった花井左門(後に松平左門と称す)が、妻室の供養のため建立したとされている。
本尊の阿弥陀如来像は行基作と伝えられ、その脇侍には観音菩薩・勢至菩薩の立像が祀られている。
また、本堂前には旧街道に向かって大きな金銅地蔵菩薩座像が置かれているが、享保6(1721)「三界万霊供養」のために蔵立されたものである。
寺の歴史を伝える宝歴10年(1760)鋳造の梵鐘は、銘文を残すのみで幕末には海防に供されたが、明治4年頃に享保2年(1713)に造られていた佐倉城大手門の鐘撞堂の鐘が教安寺に移された。この鐘も第二次大戦に供出され、宝歴の梵鐘と同じ運命をたどる事になった。その後、昭和52年3月に教安寺創建350年を慶祝して大梵鐘を鋳造し、享保の名梵鐘を再生した。
大晦日は勿論のこと、毎日正午にその音色を佐倉の町に響かせているのはこの鐘である。 墓所には佐倉藩の家老を勤めた佐治家の墓などがある。
11.重願寺
(勝誓山重願寺 浄土真宗) 【阿弥陀如来】
元は佐倉城内の天神曲輪にあったが、その後、現在の市役所西南の山裾に移された。
墓所には佐倉藩第一の書家 宮崎重賢の墓や、絵師 黒沼槐山の墓がある。槐山は印旛沼の鯉を描く事で名声をはせたといわれる。又、画家浅井忠の師でもあった。
◇浅井忠(浅井家)の墓所
浅井家からは明治時代の洋画家の先覚者としても知られる浅井忠が出た。重願寺は浅井忠の分骨とされているが、墓所に供養塔が建てられている。
(本墓は京都南禅寺の金地院)
12.妙隆寺
(久栄山妙隆寺 日蓮宗) 【曼荼羅】
文明3年(1471)に松戸市にある本土寺の日意上人によって開山され、当初は佐倉城大手門の外にあったが、宝永年間(1704~1711)に佐倉藩の侍屋敷を増やすため、現在地に移転したとされている。
墓所には、鏑木仙安≪鰲山(ごうざん)≫やその弟子たちの墓、佐倉藩 堀田家お抱え刀工の国友忠恕の墓などがある。
13.大聖院
(大和田山大聖院明王寺 真言宗) 【大日如来】
大聖院は真言宗寺院で、江戸時代は佐倉藩の祈願寺となっていた。武家屋敷のある鏑木小路の西端に位置し、当地の真言宗15ヶ寺の本寺となっている。
本尊の大日如来坐像は高さ73cmで檜材の寄木造り。製作年代は不明であるが鎌倉時代末期の様式といわれている。
墓所には、佐倉藩成徳書院初代総裁・吉見南山や、佐倉藩の刀工として佐倉に定住し、藩士達の刀づくりに励んだ細川忠義の墓などがある。
本堂左側に古めかしい「水道設備」が残されているが、これには一つの逸話がある。最近まで野狐台に大川水道という水道工事関係の会社があった。その創業者・大川徳冶は、大正11年に起こったある井戸転落事故をきっかけに、『井戸をつぶして水道を引こう』と遠大な計画を持って水道事業を始めた。事業を始めるに当り、まず自分の菩提寺に水を供給しようと志をたて、この場所に水道設備をつくり上げた。
14.周徳院
(医王山周徳院 曹洞宗) 【虚空蔵菩薩】
周徳院は大佐倉の曹洞宗勝胤寺を本寺とする寺院で、ここに安置されている薬師如来と両脇侍の三尊像は、もと薬師堂にあったもので、堂が昭和4年に火事になり、その時別当寺であった周徳院に移されたものである。
木造薬師如来像はかや材の寄木造で、像高は94.5cmあり、室町時代の作と推定されている。又、頭頂部が高く盛りあがって、頭髪が網目の渦紋状になっているという特徴がある。
江戸時代には寺小屋を開いており、明治8年から21年までは鏑木小学校になっていた。
■ 城下町佐倉の寺院 ≪おわり≫
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