佐倉市は首都圏50㎞の千葉県北部に位置し、市街は印旛沼につながる低地と、下総台地、および両者をつなぐ傾斜地からなっている。台地の高さは約30mあり、低地の中央を西流する高崎川が鹿島川に合流して印旛沼に注いでいる。
元和3年(1617)、時の佐倉藩主であった土井利勝が城郭を完成させ、以来、江戸幕府の要職に就いた徳川氏譜代の大名が佐倉藩に封ぜられた。
明治4年の廃藩置県に至るまでの約250年余、十家20名の藩主が城主になり、房総の雄藩として城付の所領6万石を基本に、入封する大名によっては他国に多くの飛地を持ったので、それらを合わせると大体10万石前後の中藩であった。
郷土の文化・伝統行事等の紹介を目的に佐倉の情報を発信している。特に江戸時代から続いている麻賀多神社祭礼に関する展示物が中心で、山車人形や祭礼の写真パネルなどがあって、旧城下町の伝統ある祭りの様子を紹介している。
麻賀多神社の祭礼については、1700年代初頭の佐倉城下町の様子を綴った「古今佐倉真佐子」にも詳細に記述されており、その後も、基本的な祭りの様子に大きな変更もなく現在も継承されており、貴重な文化遺産となっている。
現在、佐倉には山車人形六体が残され、夫々の町内会が所有している。これらは江戸で使用されていたものを、江戸時代から明治にかけて購入したもので、これらの全てが佐倉市の指定有形文化財になっている。
□横町・・・石橋(しゃっきょう)、 □上町・・・日本武尊(やまとたけるのみこと)
□二番町・・・玉の井(たまのい)、 □仲町・・・関羽(かんう)、 □肴町・・・竹生島(ちくぶじま)、 □弥勒町・・・八幡太郎(はちまんたろう)
この建物は大正7年に川崎銀行の佐倉支店として建築されたものである。設計者は建築学者矢部又吉で、彼はドイツ風の手法を用いた建築を多く手がけ、特に銀行の建物を得意分野とした。レンガ造りで大正期に建てられた銀行によく用いられた形式の建物である。
川崎銀行佐倉支店として使用された後、銀行の合併が繰り返し行われた経緯はあったが、昭和12年には第百銀行佐倉支店を最後に銀行の建物としての役目を終えた。
昭和12年以降は佐倉町役場として使用され、29年の市制施行により市役所となり、46年に市役所が現在地の海隣寺に移転した後は公民館として、また51年からは佐倉市立図書館、昭和61年からは佐倉新町資料館(現在のおはやし館)、そして、平成6年から佐倉市立美術館のエントランスホールの役目を務めている。
このように、旧城下町地区の真ん中にあって、常に佐倉の発展をの一役を担ってきたこの建物は、佐倉にとっても貴重な文化遺産である。
◆川崎銀行は、江戸時代水戸藩勘定方を務めた<川崎八右衛門>が、明治13 年に設立した銀行で、明治中期頃には有力銀行の一つに数えられた。東京日本橋にあった川崎銀行本店は、ルネッサンス様式を基調とした当時の銀行建築の代表的建物で、現在明治村に正面玄関部分の一部が復元されている。
横町から新町へ向かうにはT字路を東に進むことになるが、かつて江戸時代、このT字路は城下を見渡せ人も集まりやすい場所だったので高札場が設けられたようである。藩庁から出される『法度」や「掟書」、或いは罪人の罪状を描いた高札が掲げられ、また、非常の際の警備に当たる木戸も設けられていた。
高札場は町の辻や橋のたもと等人通りが多く、また、目につきやす場所に設置するのが一般的で、一般庶民に法を公示する手段として用いられ、分かり易いように文面は仮名まじりの文が多用された。また、高札は領主の権威の象徴であったことから、その保護のために柵矢来やや屋根を設けるなどして管理は厳重にした。
◆現在、再現した高札の様子を「おはやし館」前などで見ることができる。
◆佐倉城下では横町T字路の他に、「田町の辻」、本町の順天堂記念館脇の十字路にも高札場が設けられていた。
横町高札場があった場所は、成田筋(成田方面)、印西筋(院在方面)、寒川筋(千葉方面への街道の起点にもなるため、明治年代に「佐倉町道路元標」が建てられた。元々は陸地の「道程」(みちのり)を調査するための起点・里程元標だったが、その後主要道路の整備に伴って道路法が制定されたときに、各市町村に一つ「道路元標」を設置することが決められた。
道路の終起点がその市町村にある場合は道路元標がある場所を終起点にした。場所は市町村が決めることになり、多くは役場前とか主要な道路交差点に設置された。しかし、現在では道路の付属物という位置づけで設置義務もないため、シンボル的なものとして保存されたり、何時しかなくなった道路元標も多い。
佐倉城下町を散策していて、何処かで昔の井戸(井戸枠)に出会ったという方もおられるでしょう。そして、佐倉城下町は20mほどの台地上に形成されていたので、井戸の深さがどれくらいあるのか関心を持たれたと思います。
井戸の構造は「堀井戸」型式のようであったが、古今佐倉真佐子に次のような記述があるので紹介しておきます。
『古今佐倉真佐子』
元禄14年(1701)から享保8年(1723)まで、佐倉城主であった稲葉正知の家臣・渡辺善右衛門守由(もりよし)によって記されたもので、彼が佐倉に居住した正徳年間(1711~1716)前後の、佐倉の風俗や見聞・伝説などが綴られている。
ー終わりー