市立体育館駐車場の北角に成徳書院と集成学校の碑が建っている。佐倉藩では今から約220年前の寛政2年(1790)に、肥前国長崎の医師で蘭方に通じていた樋口保貞等を招き、2年後の寛政4年(1792)に「佐倉学問所」を創立した。当初学問所は温古堂と称していたが、天保7年(1836)からは成徳書院と称するようになった。
佐倉学問所が創立された頃、佐倉に限らず各藩においても藩校創立の機運が高まっていた。それは、幕府が元禄3年(1690)年に創った「昌平黌」(しょうへいこう)に倣ったものといわれている。
佐倉藩では、藩主堀田正睦時代の天保4年(1834)に藩政改革を行い、天保5年には西塾、東塾が設置されるなど文学振興への一貫した啓発が進められ、天保7年には、現佐倉市立体育館の場所に新しい建物が完成して「佐倉成徳書院」となった。
その後、明治になってからは旧藩主堀田家の私立学問所として運営され、学校名も度々変更されるが、集成学校と呼称されたのは明治21年から明治29年の間であった。
現在の県立佐倉高等学校は江戸時代の佐倉藩校に遡るのであるが、その流れを下記に記述しておきます。
寛政4 | 1792 | 佐倉学問所創立 | 明治21 | 1888 | 佐倉集成学校と呼称 | |
文化2 | 1805 | 温古堂と呼称 | 明治29 | 1896 | 佐倉尋常中学校 | |
天宝7 | 1836 | 成徳書院と呼称 | 明治32 | 1899 | 千葉県佐倉中学校 | |
明治2 | 1869 | 成徳館&博文道 | 明治34 | 1901 | 千葉県立佐倉中学校 | |
明治4 | 1871 | 佐倉県立成徳館 | 昭和23 | 1948 | 県立佐倉高等学校 | |
〃 | 〃 | 印旛県立成徳館 | 昭和25 | 1950 | 県立佐倉第一高等学校 | |
明治6 | 1873 | 鹿山精舎と呼称 | 昭和36 | 1961 | 県立佐倉高等学校 |
佐倉藩では、版籍奉還後に元藩士に職を与えるため、時の佐倉藩大参事西村茂樹らが中心になって、製靴、綿織、製茶の三分野を士族授産事業として推進した。その一つが藩校成徳書院の演武場跡地に、明治4年7月に「相済社」という名称で製靴業と綿織業の工場をつくった。
製靴業については、当時東京の築地で既に製靴業を始めていた西村茂樹の弟・西村勝三の協力を得て経営された。勝三は佐野藩に仕えていたが安政3年に脱藩し、その後武士も捨てて断髪令の出る前の明治2年、自ら断髪して事業家になる決心をした人物である。
旧藩士族の子女を職員・工員として雇い、主に男子が製靴業、女子は綿織に当て操業した。当時、靴は庶民には縁が無く、軍靴や巡査用靴が主体だったようである。
その後、相済社は明治33年に解散したが、その背景として次の理由があげられた。
麻賀多神社の鳥居の前、道路反対側に「佐倉養生所跡碑」が建っている。
佐倉養生所は、幕末の慶応3年(1867)に、佐倉順天堂二代目堂主で佐倉藩医でもあった佐藤尚中らが中心となり、麻賀多神社前に設立した藩営の西洋式病院であった。
この養生所は万延元年(1860)にオランダの軍医・ポンぺや、幕府の医官・松本良順らが長崎に設立した「長崎養生所」をモデルにしたといわれている。開業は慶応3年(1867)9月20日で、翌慶応4年5月には、明治維新の動乱で廃止の憂き目にあった。
養生所では佐倉藩の領民の診察や調薬が無料で行われ、また病人の症状によって入院も適宜行われ、その費用も無料であった。医者の教育と診療を一元化する西洋式医薬管理の考え方を取り入れた斬新なもので、佐倉藩の西洋医学の進展に貴重な存在であった。
現在武家屋敷が公開展示されている鏑木小路から、南方向の低地へ下る坂が薬師坂である。その坂を下る方向に向かって右側(西側)に昭和の初めまで薬師堂があった。昭和4年に焚火の不始末で全焼し、その後も再建されなかったが、今も社跡の痕跡が少しは残っている。
入口には仁王門があって、相当広い境内で奥の方に本堂が建っていた。秋の縁日には芝居小屋が立ったり、露店の店がたくさん並び、夜更けまで参詣人が絶えなかったといわれている。お堂は3間四方程の草葺きで、火事により近所の家もろとも一たまりもなく灰になってしまったようであるが、御本尊の薬師如来像と両脇侍の三尊像は、坂下にある別当寺の周徳院に運ばれ無事だった。
曹洞宗の医王山周徳院は、薬師坂を下って子育て地蔵の所を右に曲がり約200メートル位行った所にある。
終わり